峯道(みねみち)に入ります。
峯道とは、西塔から横川まで約3.7kmに渡って続く行者道で、「修禅峯道」といいます。
東塔から西塔までの道のりとは、全く異なりアップダウンが続くトレッキングコースになります。
イメージ 113時です。峯道に入って約30分で玉体杉に着きました。
蓮台石が備えられており、回峰行者が唯一腰を下ろして休息できる場所です。

京都御所がちょうど中心になるように市内を展望できます。

回峰行者がここで御所に向かって玉体加持の祈祷をするため、この杉の木は玉体杉と呼ばれています。
玉体加持の祈祷とは、「天皇の安泰を祈り、国の平安を祈る」ことです。
余談ですが、京都府のパワースポットとして最近注目されつつあります。

蓮台石の端っこをお借りして昼食をとりました。
イメージ 2

14時に出発して、しばらく行くと、二体の石仏が並ぶ「せりあい地蔵」に出ます。






イメージ 3「せりあい地蔵」の先ドライブウェイの下を少々かがみながらくぐります。









イメージ 4玉体杉を出発して、1時間弱で横川の駐車場に着きました。









イメージ 5駐車場から参拝受付所を経て、龍ヶ池に着きました。
池の中央には「龍ヶ池弁財天女」が祀られています。
池の前の案内板では
「延暦寺古書に曰(いわく) 昔この池に大蛇が住みつき村人達に害を与えていた。
元三(がんざん)大師これを聞き大蛇に向い “汝―法力を持っていると聞くが本当か”
とおたずねになった。
大蛇は、威猛々に “本当ダ俺に出来ないことは何もない” と答えました。

大師は “ナラバ大きい姿になってみよ”
と申されるとお安いご用とばかり数十倍の大きさに変身しました。

大師は再び “デワ小さくなり私の手の平に乗れるか”
とのお言葉に “承知” とばかり小さくなり手の平の中に入りました。
 
大師がすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。
そして弁天様をお迎えし小さくなった大蛇をお渡しになり、
弁天様のお侍いとしてお側に仕えさせて頂きたいとお願いされました。

大蛇も大師に諭され前非を悔い今度は自分の持っている法力を善業に向け横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就の助けをしようと大師に誓いました。
 
以後訪れる人の幸せを願い助力を盡(つ)くしております。
別名 “雨乞いの弁天様” としても有名であります。」と案内されています。
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イメージ 6池の右手に横川中堂へ至る石段がありますが、通り過ぎて左手の斜め前方への坂道を上がります。
上がりきった所にあるのが根本如法塔です。
この塔は、第三世天台座主慈覚大師円仁が、自ら書写した法華経一部八巻を納める宝塔を建てたのが起源で、
横川発祥の聖跡であることから根本如法塔と称されています。

釈迦・多宝の二仏を本尊としています。
現在の塔は、大正14年(1925)に建てられたものです。

大正12年(1923年)、如法堂跡に塔を建てるための工事中に経箱が発掘されました。

銅製の箱に金メッキが施され、蓋には「妙法蓮華経」と書かれており、
この箱は後に「金銅経箱」として国宝に指定されました。
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イメージ 7来た道を戻り、横川中堂へ向かいます。
横川中堂でスタンプを押して、スタンプラリーの完成です。

このお堂は、慈覚大師円仁の入唐(にっとう)帰国後に創建されました。

織田信長の叡山焼き討ちで焼失した後、
慶長年間に総丹塗舞台造で再建されましたが、昭和17年(1942)に落雷で焼失。

現在の中堂は昭和46年(1971)に旧堂の寸法に忠実に再建されたお堂。

舞台造といえば、清水寺も舞台造じゃなかったかな...

本尊「木造聖観音立像」は平安時代の作といわれており、重要文化財に指定されています。

境内に「護法石」があります。といっても場所がどこだったのか忘れてしまいました。
案内板は撮れていたのですが、肝心の石が撮れていませんでした。
この石には、比叡山の守護神である鹿島明神と赤山明神の分霊が宿っていると伝えられています。
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お堂を出ると、正面に緩やかな上り坂の参道が続いています。
参道の右手に赤山明神社の祠があります。

赤山明神?どこかで見たような記憶が...
千日回峰行の「赤山苦行」の修学院にある寺。赤山禅院でちょっと違う。

赤山明神は中国の山東省の赤山に祀られていた、
人の寿命や福禄をつかさどる神とされる泰山府君の分霊を、
当時中国に留学していた円仁が遷座したと云われています。

比叡山西麓の守護神として祀られています。
ちなみに、東麓の守護神は日吉大社です。

残念ですがここも、写真が撮れていません。
イメージ 8

赤山明神を出ると、すぐ左手に高浜虚子の塔があります。
案内板が少々破損しているのと、少々汚れていました。






イメージ 9虚子の塔を出て、参道を進むと突き当たりに鐘楼があります。
そこを右に曲がるとすぐに恵心院に行けます。












イメージ 10恵心院の前の案内板の文面をそのまま掲載します。
「恵心僧都の旧跡で、藤原兼家が元三慈恵大師のために建立した寺です。

門前に「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。
恵心僧都は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念され、
有名な「往生要集」や「二十五昧式」「六道十界ノ図」「弥陀来迎ノ図」等を著し、浄土教の基礎を築かれました。

毎年六月十日のご命日には「二十五三昧式」の講式が唱えられ、僧都の報恩法要が営まれています。
付近の都率谷墓地に恵心廟があります。」

「往生要集」の名は歴史の教科書で見た記憶が...今でも出版されていますよ。
ウィキペディアによりますと、
「往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、
多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。」

と紹介されています。源信は恵心僧都の別名です。
恵心僧都源信は平安中期の僧で天慶5年(942)大和国に生まれ、
寛仁元年(1017)に76才で没しました。

天台宗座主良源に師事し、985年にを著わした「往生要集」が以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。

ここが我が国の浄土信仰の発祥の地といわれます。
源信が良源に教えを受けたのが恵心院ですが、現在の恵心堂の建物は、
比叡山の麓の坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建したものだそうです。

大津市の琵琶湖に浮かぶ堅田の浮御堂は恵心僧都源心が建てた美しいお堂です。
(京都観光ガイドHPから引用)

恵心院の先に恵心僧都のご廟があり、その先飯室(いむろ)谷から坂本へと続く行者道になります。
 
近いうちに坂本からこの行者道を上がって、
大原の方へ下ってみようかと考えています。明日に続く