10月8日の京都新聞の記事です。
「京都市伏見区淀の桂川河畔での発掘調査で7日までに見つかった淀城跡と
みられる遺構では、石垣とともに曲輪(くるわ)の一部「内高嶋(うちたかしま)」の状況が明らかになった。
古地図と同様の形をした池の跡からは当時の絵図の正確さが証明された。
内部で確認された石組みはさまざまな用途を想像させ
、城郭ファンの心をくすぐる。」

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2日後に見に行ってみたのですが、
付近は工事をされていて立ち入り禁止になっていました。
淀城の城郭はこの桂川と東の宇治川に面して、直径8間(14.5m)の水車2基が架かっていました。

旧京阪国道の淀城跡を出た反対車線に水車跡の石標が立っています。
でも、発掘場所から離れています。









イメージ 2モヤモヤとしたものを残しながら、淀城跡のほうへ行ってみました。
淀城はず~っと淀殿の淀城だと思っていたのですが、実は違ったのですね。
今は本丸の石垣と堀の一部が残っているにすぎず、天守台跡は立入り禁止になっています。
中は公園になっていて、子供たちが野球やサッカーを楽しんでいました。

京都市は天守閣や水車を復元する構想を持っているらしいのですが、ご他聞にもれず財政難で全く進展していません。
京都市の端っこだし、たいして集客力も見込めないのだろうと、
ひねくれた目で見てしまいます。
当日も観光客らしき人はほとんど見ませんでした。(平日だからかもしれません)
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京阪淀駅のほうに向かうと、この城跡に併設すように與杼(よど)神社がありました。
地元密着の神社ですが、以前は桂川の右岸にあって、
桂川の水運運輸の守護神として崇められていました。
明治33年(1900)、桂川改修工事のため、この地に移されました。
 
本殿と拝殿は国の重要文化財に指定されたそうですが、
本殿は昭和50年に消失したそうです。
拝殿は無事で、慶長12年(1607)に建造されたものです。

10月30日から11月3にまで秋季大祭が開催され、11月3日に神輿(みこし)渡御が行われます。
イメージ 4一旦帰宅して、ウィキペディアで淀古城を調べると、
妙教寺に石碑が残されていることが分かりました。

地図で調べると、妙教寺を挟んで南北の地名が「納所北城堀」「納所南城堀」になっています。
また、付近に「城之内保育園」もあって、ここに城があったことを物語っています。
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この城は山城(京都市の旧地名)の守護所であったので、
規模はそこそこあったのであろうと想像します。
淀古城は、室町時代に築城された平城で、妙教寺の付近に本丸があったとされています。
しかし、遺構は残されていませんので、今となっては往事を偲ぶ事もできません。
応仁・文明の乱など、戦乱で傷ついたであろう城を豊臣秀吉は天下統一後、
天正17年(1589)年に改修して側室であった茶々の産所とした。
茶々は鶴松を出産したが、鶴松は数え年3歳で淀城内で事故死した。
文禄1年(1592)に、城主は木村重慈(しげこれ)に移っていて茶々が淀城にいたのは僅かな期間でした。
木村重慈は、文禄4年(1595)、秀吉の反感を買い自害を命じられる。
秀吉は同年、淀城の廃城を決め、新たに伏見城を築城し、淀城の資材を流用した。
妙教寺の鐘楼の前に、淀城跡の石碑があり戊辰戦争では、この寺も被害を受けたとの記載もありました。

この時は、意識しなかったのですが、せっかく岩清水八幡宮の近くまで来ていたのにと、少々悔やまれます。

先に高野山に行きます。明日は一夜漬けの予習をして、29日早朝から日帰りです。
帰ってから「高野山の巻」を連載します。
認識し