青岸渡寺の本堂の左側に熊野那智大社への門があります。
門をくぐった先に樟霊社(しょうれいしゃ)があります。
平重盛が造営奉行に就いていた際に、手植えしたと伝わる樹齢約850年の樟を
平重盛が造営奉行に就いていた際に、手植えしたと伝わる樹齢約850年の樟を
御神木として祀っています。
このクスノキは、幹が空洞化していて、通り抜けることができ、
和歌山県の天然記念物に指定されています。
熊野那智大社は、元々那智滝の近くに社殿がありましたが、
約1700年前に現在地に遷されたと伝わります。
拝殿の奥に鈴門・瑞垣を挟んで本殿が五社並んでいます。
主祭神は、第四殿に祀られている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。
夫須美とは「産霊(ムスヒ)」と同意で、「むす」は生じる、「ひ」は
拝殿の奥に鈴門・瑞垣を挟んで本殿が五社並んでいます。
主祭神は、第四殿に祀られている熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)です。
夫須美とは「産霊(ムスヒ)」と同意で、「むす」は生じる、「ひ」は
神霊の意味があり、天地・万物を生み出す神霊とされています。
後世になって「むすび」という意味も持つようになり、かつては
後世になって「むすび」という意味も持つようになり、かつては
「結宮(むすびのみや)」という通称で呼ばれていました。
Wikipediaでは、次のような説明も見られます。
「夫須美大神の別名をイザナミとするのは、記紀神話において、
Wikipediaでは、次のような説明も見られます。
「夫須美大神の別名をイザナミとするのは、記紀神話において、
イザナミが国生み・神生みといった天地万物を生み出した女神であることから、
これをムスビと同意とみたものであろう。」
奥から二番目の少し大きい社殿に熊野夫須美大神が祀られています。
手前の第一殿・滝宮は、那智大社のみで祀られています。
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)で、当社公式ウェブサイトの由緒に
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)で、当社公式ウェブサイトの由緒に
次のように記載されています。
「神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に
「神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に
上陸されました。
一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、
一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、
那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の
現れたる御神体としてお祀りされました。」
大己貴命は、別称の大国主命が有名で、国造りの神として信仰されています。
大己貴命は、別称の大国主命が有名で、国造りの神として信仰されています。
第二殿は、証誠殿で家都御子大神(けつみこのおおかみ)が祀られています。
家都御子大神は、熊野権現の中心的な神で、もともと三山の中で、
家都御子大神は、熊野権現の中心的な神で、もともと三山の中で、
本宮(熊野坐神社)の祭神であったとされています。
出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命
出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命
(くまののおおかみ・くしみけぬのみこと)が勧請され、それが当地で
家都御子神になったと伝えられています。
また、朝日日本歴史人物事典では以下のように解説されています。
「ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。」
また、朝日日本歴史人物事典では以下のように解説されています。
「ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。」
第三殿は、中御前で熊野速玉大社の主祭神である御子速玉大神が祀られています。
第五殿は、若宮で天照大神が祀られています。
第五殿は、若宮で天照大神が祀られています。
本殿の左側に御縣彦社(みあがたひこしゃ)があります。
祭神は建角身命(たけつのみのみこと)で、八咫烏に化身して神武東征の際、
祭神は建角身命(たけつのみのみこと)で、八咫烏に化身して神武東征の際、
大和の橿原の地へ導いたとされています。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は烏石に姿を変えて
休んでいると伝わります。
社殿の前には、八咫烏の銅像が建てられています。
御縣彦社の奥に第六殿の八社殿があり、禅児宮・聖宮・児宮・子守宮・
一万宮、十万宮・米持金剛・飛行夜叉・勧請十五所の八社が祀られています。
来月、熊野三山を巡りたいと計画しています。
大門坂から、改めて那智大社もお参りしたいと考えています。
来月に続く。
大門坂から、改めて那智大社もお参りしたいと考えています。
来月に続く。