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満願寺から岡崎通に戻り、岡崎通を丸太町通を横切って北進した先で
突き当りになり、突き当りを右折して東に進んだ先に
金戒光明寺の高麗門があります。
高麗門は、安土・桃山時代後期から造られ始めた城門で、江戸時代以降には、
城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして
多く築造されました。
金戒光明寺は、江戸時代の初期に城郭構造に改修され、文久2年(1862)に、
京都守護職・会津藩の本陣となりました。
境内は高台にあり、かっては洛中から天王山方面まで見渡せたそうです。
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門の左脇には「円光大師霊場」「会津藩殉職者墓所」の石碑が建立されています。
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高麗門をくぐり、参道を進んだ左側、石段の上に山門があります。
徳川幕府の命により、文政11年(1828)から再建に取り掛かり、
万延元年(1860)に落慶されました。
山門の楼内には、等身大の釈迦如来坐像と両脇侍に文殊菩薩と
普賢菩薩が安置され、十六羅漢像が随従しています。
但し、通常非公開です。
山門に掛る勅額「浄土真宗最初門」は、後小松天皇から賜ったもので、
法然が最初に浄土宗の布教を行った念仏発祥の地であることを意味し、
浄土真宗の宗派名を表すものではありません。
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門をくぐって進んだ左側に「勢至丸(せいしまる)さま」の像が建立されています。
勢至丸は、法然上人の幼名で、現在の岡山県久米郡久米南町で誕生し、
後その地に熊谷直実によって誕生寺が建立されました。
保延7年(1141)9歳の時、土地争論に関連し、父が殺害されましたが、
その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、
母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られることになりました。
その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、
また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めました。
天養2年(1145)、比叡山延暦寺に登って源光に師事し、久安3年(1147)に同じく
比叡山の皇円の下で得度し、天台座主・行玄を戒師として授戒を受けました。
久安6年(1150)、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行し、
18歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という
諱(いみな=名前)も授かりました。
法然の僧としての正式な名は法然房源空です。
承安5年(1175)43歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって
回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りました。
かって延暦寺の寺領であったこの地に庵を結び、念仏の教えを広めたのが
金戒光明寺の始まりとされ、この年が浄土宗の立教開宗の年とされています。
しかし、元久元年(1204)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起し、
承元元年(1207)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下されました。
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として
土佐国(実際には讃岐国)に流罪となりました。
承元元年(1207)12月に赦免され、法然は讃岐国から戻ると
摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210)3月21日まで
滞在していた記録が残されています。
翌年の建暦元年(1211)、京に入り、吉水に戻りましたが、
建暦2年(1212)1月25日、京都東山大谷で逝去されました。
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更に石段を上った左側に鐘楼があります。
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石段を上った右側の奥に経堂があります。
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経堂の左側に納骨堂があります。
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納骨堂の左側に阿弥陀堂があります。
慶長10年(1612)に豊臣秀頼によって再建されたもので、金戒光明寺に
現存する最も古い建物です。
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堂内には恵心僧都の最後の作とされる阿弥陀如来像が安置されています。
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正面に御影堂があり、大殿とも呼ばれています。
御影堂は昭和9年(1934)に焼失し、すぐさま再建に取り掛かり、
昭和19年(1944)に落慶法要が営まれました。
内陣正面に法然75歳の御影坐像が安置されています。
内陣の左側に安置されている文殊菩薩像は、獅子の背に乗り、
右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)、左手に経典を乗せた青蓮華を持つています。
左側に獅子の手綱を握る優填王 (うでんのう)、右側に
仏陀波利(ぶっだはり)と最勝老人の脇侍を従え、共に運慶作と伝わります。
元は金戒光明寺の北西にあった中山法幢寺(ほうどうじ)の本尊でしたが、
応仁の乱の兵火を受け廃寺となり、その後、金戒光明寺の方丈へ遷されました。
寛永10年(1633)、豊永堅斎が徳川二代将軍・秀忠を菩提するために三重塔を
建立し、その本尊として安置されるようになりました。
以上の四躯が京都市の文化財に指定されたのを期に、5年をかけて修復が行われ、
善財童子が新調されて渡海文殊形式が整えられました。
御影堂の左脇に新たな須弥壇が設けられ、像高108.5cm・総高280cmの
文殊菩薩像と等身大の眷属四躯が安置され、平成20年4月22日に
御遷座開眼法要が営まれました。
内陣の右側には吉備観音と呼ばれる千手観音立像が安置されています。
吉備真備(きび の まきび)は、奈良時代の養老元年(717)に阿倍仲麻呂・
僧の玄昉らと共に遣唐使として入唐しました。
帰路、船が遭難しそうになり、吉備真備が「南無観世音菩薩」と唱えたところ、
その難から逃れ、種子島に漂着することができました。
吉備真備は、唐より持ち帰った栴檀(せんだん)の香木で、
僧・行基に頼み観音像を刻んだと伝わります。
これが吉備観音とされるもので、元は吉田山にあった吉田寺(きちでんじ)の
本尊でしたが、江戸時代の寛文8年(1668)に廃寺となり、徳川幕府の命により、
金戒光明寺へ遷されました。
吉備観音は洛陽三十三観音霊場の本尊でもあります。
本堂に下がる幢幡(どうばん)は、世界最大級の大きさで、製作日数
約3年をかけて平成22年9月に取り付けられました。
御影堂の天井高8mに対し、幢幡の総丈6mもあります。
幢幡とは、仏・菩薩の威徳を表す荘厳具で、幡を角状に集めて
周囲を瓔珞(ようらく)などで飾ったものを言います。
胴には、雲中菩薩40体が彫刻されています。
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御影堂に左前に手水舎があり、その右側に子育て地蔵尊が祀られています。
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御影堂の左側に阿弥陀如来の石仏が祀られています。
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その奥には、宝篋印塔や五輪塔が見られますが、詳細は不明です。
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御影堂の右手前には「熊谷直実 鎧掛けの松」が植えられています。
熊谷直実は、鎌倉時代初期の建久4年(1193)にここ黒谷に法然上人を訪ね、
方丈裏の池で鎧を洗い、この松の木に鎧を掛け、出家しました。
平成25年に二代目の松が枯れ、現在は三代目の松に引き継がれています。
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松の右側に大方丈への門がありますが、春と秋の特別公開以外は
大方丈は非公開です。
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境内の右端には清和殿(寺務所)があります。
三重塔へ向かいます。
続く