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法華寺から「法華寺」の信号まで戻り、右折、南下して国道24号線に
右折して入るとその先でカーブして南下します。
24号線の「柏木町」の信号を左折して東進した先、「大安寺」の看板を
目印に左折した先に大安寺があります。
大安寺の駐車場の北側に推古天皇社があり、豊御食炊屋姫尊
(とよみけかしきやひめのみこと=推古天皇)が祭神として祀られています。

推古天皇は父を欽明天皇、母を蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ)とし、
蘇我馬子は母方の叔父に当たります。
『日本書紀』推古紀に「姿色(みかお)端麗(きらきらしく) 進止軌制
(挙措動作は乱れなくととのっている)」との記載があり、
容姿端麗であったとされています。
18歳で第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の皇后となりましたが、
34歳の時、天皇は崩御されました。
その後、第31代・用明天皇は皇位に就いて2年後に崩御され、その跡を継いだ
第32代・崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、5年後に蘇我馬子に暗殺されました。
推古天皇は39歳の時、第33代天皇として即位し、
甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としました。

推古天皇は聡明で、聖徳太子と蘇我馬子の勢力の均衡を保ち、
豪族の反感を買わぬように、巧みに治政を行いました。
推古天皇2年(594)に、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔を発布し、
仏法興隆にも努めました。
聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(推古天皇11年=603)・
十七条憲法(同12年=604)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。
推古天皇15年(607)には、初めて日本の独立を強調する目的で
遣隋使を派遣しました。
推古天皇30年(622)に太子が49歳で崩御されると、4年後の同34年(626)には
蘇我馬子も亡くなり、同36年(628)、天皇は75歳で崩御されました。
大安寺に戻ります。
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訪れたのは9月末でしたが、10月1日から11月30日まで本尊の秘仏・
十一面観音菩薩立像が特別開帳されます。
大安寺は神仏霊場巡拝の道・第17番、大和十三仏霊場・第13番、
聖徳太子霊跡・第11番、大和北部八十八ヶ所霊場・第1〜2番札所になっています。

現在の南大門は、かっての基壇の上に建立されていて、平成になってから
興福寺・旧一乗院の門を移築、復元したものです。
かっての南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣でした。
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門を入ると「中門跡」の石碑が建っています。
かっての伽藍図では、中門の先に金堂、講堂と続いていたようですが、
現在はコンクリート造りの讃仰殿(さんぎょうでん=宝物殿)が建っています。
堂内には、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん/ふくうけんじゃくかんのん)、楊柳観音(ようりゅうかんのん)、聖観音、四天王像の諸仏をはじめとして、
出土の古代瓦や創建当時の伽藍模型などが展示されています。
仏像はいずれも奈良時代末期の制作と思われ、国の重要文化財に
指定されていますが、いずれの像も破損が多く、
各像の両腕などは大部分後補のものに変わっています。
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復元図では中門を入った右側に「塔」と記されていますが、
現在は十三重石塔があります。
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現在の本堂は「中門跡」の石碑から左側に進んだ所に建立されています。
大安寺は、聖徳太子が平群郡(へぐりぐん)額田部(現・大和郡山市)に
熊凝(くまごり)道場を創建したことに始まります。
病床の聖徳太子を田村皇子が見舞った際に、皇子に「熊凝精舎」を大寺として
造営してほしいと告げたとされ、後に皇子が舒明天皇(じょめいてんのう)として
即位した舒明天皇11年(639)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めました。
「大寺」とは私寺に対する官寺を意味し、これが百済大宮と百済大寺であり、
日本最初の官寺とされています。

その後、天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に移され、
天武天皇6年(677)、高市大寺を大官大寺(おおつかさのおおてら)と改めました。

持統天皇4年(690)、藤原京の造営が着工されたのに伴い、
大官大寺も場所を移して造立されました。
昭和49年(1974)にその跡が発掘調査され、巨大な金堂、講堂、
塔などの遺構が見つかり、国の史跡に指定されました。

和銅3年(710)、都は藤原京から平城京に遷され、霊亀2年(716)に大官大寺は
平城京左京六条四坊の地へ移転し、大安寺となりました。

その後、都が平安京へ遷されると、仏教は東寺や延暦寺を中心とした
密教に中心が移ったために宗風は振るわず、
また境内や伽藍の焼失が相次ぎ次第に衰退しました。
寛仁元年(1017)の火災では、本尊の釈迦如来像と東塔を残してことごとく焼失し、以後、かつての規模を取り戻すことはありませんでした。
慶長元年(1596)の地震による損害の後、近世には小堂1つを残すのみでした。

現在の大安寺が復興されたのは、明治15年に小堂と庫裡が建築され、
その後に本堂が建立されてからです。

本尊は奈良時代作、像高190.5cmの木造十一面観音立像で、
国の重要文化財に指定されています。
秘仏とされ、10月1日~11月30日の期間のみ特別開帳されます。
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本堂の奥に小子坊と嘶堂(いななきどう)が並んでいます。
小子坊は平成になってから建立されたもので、 写経道場として利用されています。

嘶堂も平成になってから建立されたもので、堂内には国の重要文化財に
指定されている、奈良時代作、像高173.5cmの馬頭観音立像が安置されています。
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嘶堂の右側に護摩堂があり、大安寺の公式HPでは江戸時代の旧嘶堂と
記載されていますが、新しく再建されたように見えます。
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護摩堂から右奥に進むと地蔵像が祀られ、その前に「お竹地蔵参道」と刻まれた
石碑が建っていますが、参道らしきものは見当たりません。
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地蔵像の右側に五輪塔があり、大安寺歴代住侶の供養塔です。
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五輪塔の右側に弘法大師7歳像の稚児大師像が建立されています。
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門を出て南へ進んだ所に八幡神社があり、大安寺の旧境内に鎮座し、
もと同寺の鎮守神として大安寺八幡宮と称されました。
また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝承を持つ事から
元石清水八幡宮とも称されています。

入唐した大安寺の僧・行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠して
その神影を奉戴、大同2年(807)に大安寺・東室第7院の石清水房に
鎮座したのが始まりと伝わります。
その後、神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して
大安寺の鎮守神としました。

貞観元年(859)、神託により山城男山へ遷座したため、
改めてその跡に祀ったのが創祀であるとされています。

現在は室町時代に建立され、江戸時代の永正元年(1504)、火災により
改築された中門が工事中でした。
規模の大きな四脚門で奈良県の文化財に指定されています。
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本殿の下には狛犬や奉納された多数の鳩の像がまとめて置かれていました。
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本殿の左側に稲荷社があり、多数の狐像が奉納されていました。
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八幡神社の先、大安寺・南大門から約150m離れた左右に東・西塔跡があり、
国の史跡に指定されています。
東塔跡には基壇が復元され、建っていた塔は七重塔と見られています。

神仏霊場巡拝の道・第18番、大和北部八十八ヶ所霊・第68番札所の
帯解寺へ向かいます。
続く