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帯解寺から国道169号線へと出て、169号線を北上した所に興福寺があります。
ようやく二輪も停められるコイン式駐車場を見つけ、猿沢池へと向かいました。
猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749)に造られた
人工池ですが、七不思議があります。

1.猿沢池の水は、決して澄むことない。
2.またひどく濁ることもない。
3.水が流入する川はない。
4.また流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。
5.亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいない。
6.なぜか藻も生えない。
7.毎年「放生会」で多くの魚が放たれているにもかかわらず、
魚であふれる様子がない。

昭和34年(1959)に池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」と
騒がれたそうです。
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猿沢池から五重塔を目指して進んだのですが、入口が判らず戻りました。
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西へ進むと南大門跡があり、現在高さ約1.5m、東西約30.8m、
南北約16.6mの基壇が復元されています。
かっての南大門は平城京の朱雀門と同じ規模を持つ重層の楼閣だったと
推定され、その復元も計画されています。
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南大門の正面に中門跡の基壇が復元されていて、その奥に平成30年の落慶を
目指し中金堂が再建されています。
中金堂の右側に東金堂、左側には現在はありませんが西金堂と三棟の
本堂を有する大寺院であったことが窺い知れます。
26件の国宝、44件の重要文化財を有し、現在の境内と合わせて奈良公園の
一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されています。
また、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。

興福寺は飛鳥時代の天智天皇8年(669)、藤原鎌足夫人の鏡王女
(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国山階(現・京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源です。
天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって
厩坂寺(うまやさかでら)と称しました。
和銅3年(710)、平城遷都に際し、鎌足の子・不比等は厩坂寺を
平城京左京の現在地に移し「興福寺」と改めました。
不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、
元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになりました。
平安時代には春日大社の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して
事実上の同国の国主となりました。
寺領は拡大され、堂塔伽藍は百数十棟、僧侶4千名を擁する大寺院へと
発展していきました。
その勢力の強大さは、「南都北嶺(なんとほくれい)」と称され、春日大社の
神木を擁した興福寺の僧兵と日吉(ひえ)神社の神輿(みこし)を奉じた延暦寺の
僧兵とが、互いに確執を繰り返し、争いや朝廷への強訴(ごうそ)となりました。
しかし、治承4年(1180)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に平重衡の
南都焼討により、東大寺とともに大半の伽藍が焼失しました。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のもので、仏像をはじめとする
寺宝類も多数が焼失しました。
興福寺は鎌倉時代に復興され、興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる
仏像もこの時期に数多く作られました。
しかし、江戸時代、享保2年(1717)の火災では、西金堂、講堂、南大門などは
再建されませんでした。
更に慶応4年(1868)に出された神仏分離令により、子院はすべて廃止、
寺領は明治4年(1871)の上知令で没収され、境内は塀が取り払われ、
樹木が植えられて、奈良公園の一部となりました。
明治14年(1881)、ようやく興福寺の再興が許可され、明治30年(1897)、
文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布され、
興福寺の諸堂塔も修理や再建に着手され現在も進行中です。

正面の中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するため、
寺の中心的な堂として和銅3年(710)の平城京遷都直後に
造営が始められたと考えられています。
その後、東金堂、西金堂が建立されてからは中金堂と呼ばれるようになりました。
創建以来たびたび焼失と再建を繰り返し、江戸時代の享保2年(1717)に
焼失してからは約100年間再建されないままでした。
文政2年(1819)、篤志家の寄付によってようやく再建されたのですが、
周囲1間を縮小した仮堂でした。
資金不足で安価な松材が多く使われたため、荒廃が進み、
平成12年(2000)に解体され、本格的な中金堂が再建されつつあります。
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南大門から西へ進んだ所に南円堂があり、日本最大の八角堂で、
国の重要文化財に指定されています。
南円堂は弘仁4年(813)、藤原北家の藤原冬嗣により
父・内麻呂(うちまろ)追善のため創建されました。
現在の建物は四代目で、寛政元年(1789)に再建されたもので、
八角の一面は6.4m、対面径は15.5mあります。
本尊は像高3.36mの不空羂索観音坐像で、国宝に指定されています。
西国三十三観音霊場・九番札所の本尊でもありますが、堂の扉は常時閉ざされ、
開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみです。
この像は、天平18年(748)、その前年に没した
藤原房前(ふじわら の ふささき)の追善のため、
夫人の牟漏女王(むろ の おおきみ)、子息の藤原真楯(ふじわら の またて)ら
が造立したもので、もと興福寺講堂に安置されていました。
現在の像は、運慶の父である康慶(こうけい)一門の作で、
文治5年(1189)に完成しました。
堂内には四天王立像と法相六祖像が安置されてしましが、
法相六祖像は国宝館に遷されました。
四天王立像は、鎌倉時代の作で国宝に指定されています。
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南円堂の左前に不動堂があり、中央に不動明王坐像が安置されています。
右側には弘法大師像でしょうか?
不動明王の図像は、空海が唐より密教を伝えた際に、
日本に持ち込まれたとされています。
両側に安置されているのは三十六童子でしょうか?
興福寺の公式HPでは不動堂には触れられていません。

不動堂や南円堂の納経所の前に藤棚があり「南円堂藤」として
南都八景の一つになっています。
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南円堂から東へ進んだ先に、高さ50.1mの五重塔があり、国宝に指定されています。
天平2年(730)、藤原不比等の娘・光明皇后の発願で創建され、
その後5回の被災・再建を経て現存の塔は応永33年(1426)頃に再建されました。
東寺の五重塔に次ぐ日本第二位の高さがあり、初層の須弥壇には、
いずれも室町時代作の東に薬師三尊像、西に阿弥陀三尊像、南に釈迦三尊像、
北に弥勒三尊像が安置されています。
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五重塔の前に、我が国に伝わる奈良時代唯一の燈篭の基台が残されています。
かって丸い石の台に灯篭が載せられていました。
その周囲に八弁の蓮の花びらが彫り出されています。
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五重塔の北側に東金堂があり、国宝に指定されています。
9月15日~11月19日の期間、「興福寺国宝特別公開」が開催されていて、
東金堂との共通拝観券(900円)で拝観することができます。
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現在、国宝館が耐震強化工事中のため、仮講堂がその会場となっています。
仮講堂は、昭和50年(1975)に旧講堂跡に室町時代の薬師寺の旧金堂が
移築されたもので、興福寺・金堂の役割を果たしていましたが、
本年、仮講堂から、中金堂の本尊である釈迦如来坐像や諸仏が遷されたようです。
来年、中金堂が再建された後は講堂として整備されるそうですが、
逸早く講堂の本尊である阿弥陀如来像が安置されています。

堂内には、中央に鎌倉時代初期作で国の重要文化財に指定されている、
像高2.257mの阿弥陀如来像が安置されています。
右側に梵天像、左側に帝釈天像が安置され、共に鎌倉時代初期の作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
梵天像は像高171.5cm、帝釈天像は像高166.5cmで、
元は西金堂に安置されていたものと考えられています。
阿弥陀如来像の正面には、国宝の銅造華原磬(どうぞうかげんけい)が
置かれています。
天平6年(734)に創建された西金堂に阿修羅像などとともに置かれ、
その意匠は獅子の背中に柱が立ち、そこに雌雄4体の龍が巻きつき、
その上にに金鼓(こんく)と呼ばれる楽器を抱えています。

左右には旧西金堂の天平彫刻である八部衆像と十大弟子像が安置されています。
旧西金堂は、天平5年(733)に亡くなった藤原不比等夫人の橘三千代の
一周忌供養のため、翌天平6年に娘の光明皇后によって発願・建立されました。
創建当時の堂内には、釈迦三尊像と釈迦如来の眷属である十大弟子像、
八部衆像、そして二大護法善神とされる梵天・帝釈天像、及び帝釈天の
配下とされる四天王像などが安置されていました。
度重なる火災で創建期の像は八部衆像8体と十大弟子像の内6体が救出され、
仮講堂に安置されています。
更にその左右の外側には鎌倉時代作で国宝に指定されている
金剛力士像が安置されています。

東金堂へ戻ります。
東金堂は神亀3年(726)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇(げんしょうてんのう)の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建されました。
治承4年(1180)の兵火による焼失後、文治3年(1187)、興福寺の僧兵は
飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、
東金堂本尊に据えたのですが、応永18年(1411)、東金堂は五重塔とともに焼け、
薬師三尊像も失われました。
現在の建物は応永22年(1415)に唐招提寺・金堂を参考にした天平様式で
再建されたもので、平面規模は、創建時の堂に準じています。

堂内には、重要文化財に指定されている銅造薬師三尊像が安置されています。
像高255cmの薬師如来坐像は応永18年(1411)の火災後に再鋳造されたもので、
像高300.3cmの日光・像高298cmの月光両菩薩立像は、
共に白鳳時代のもので火災から救出されました。
薬師三尊像の周囲には鎌倉時代作で国宝に指定されている
十二神将立像が護衛しています。
向かって左側には鎌倉時代の建久7年(1196)、定慶の作で国宝に指定されている
像高88.1cmの木造維摩居士坐像(ゆいまこじぞう)が安置されています。
右側に維摩居士像と対を成すように、定慶の作と推定され、国宝に指定されている
像高94cmの木造文殊菩薩坐像が安置されています。
堂内四隅には平安時代前期作で国宝に指定されている四天王像が安置されています。
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南円堂の方へ戻ります。
南円堂の北側に西金堂の跡地が残され、フェンスで囲われた横を北上すると
北円堂があり、国宝にしてされています。
北円堂(国宝)は養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、
元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建されました。
現在の建物は承元2年(1208)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では
最も古い建物になります。
現在、回廊の復元計画中で周囲はフェンスで囲われ近寄ることはできません。
堂内には建暦2年(1212)頃、晩年の運慶によって造られた国宝に指定されている
像高141.9cmの木造弥勒仏坐像が安置されています。
国宝の木造無著菩薩・世親菩薩立像は、本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作で、
鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の
最高傑作の1つとして高い評価を得ています。
無著と世親(せしん)の兄弟は、釈迦入滅後約千年を経た5世紀ころ、
北インドで活躍し、大乗仏教の根幹をなす思想の一つである
唯識思想を大成させました。
玄奘三蔵法師は、戒賢論師(かいげんろんじ)から唯識思想を学び、
中国に持ち帰ります。
中国では玄奘三蔵法師の弟子、慈恩大師がこの思想を受け継いで法相宗を開きます。
法はものの本性、相はものの現象、をさしています。
興福寺は法相宗の大本山です。
八角須弥壇の四方には、延暦10年(791)に造立され、国宝に指定されている
四天王像が安置されています。
増長天と多聞天の台座裏面の墨書きから、元は大安寺の四天王像として
造立され、弘安8年(1285)に興福寺の僧によって修理されたことが判明しました。
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北円堂から南下した所に三重塔があり、国宝に指定されています。
康治2年(1143)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建されました。
治承4年(1180)の大火により被災してから間もなく再建されたとみられ、
北円堂と共に興福寺最古の建物で高さは19.1mです。
塔内、東の須弥壇に弁財天と十五童子像が安置されています。

いったん帰宅し、次回は国道169号線から西国三十三所観音霊場・第8番、
神仏霊場巡拝の道・第35番、真言宗十八本山・第16番札所である
長谷寺へ向かいます。