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長谷寺から国道165号線へ戻り、西進した先「安倍」の信号を左折し、
その先「安倍木材団地2」の信号を左折した先の突き当り、
坂道を登って行った所に駐車場への入口があります。
駐車場を出た右側に「文殊院西古墳」があり、国の特別史跡に指定されています。
横穴式の古墳で羨道(せんどう)部の長さ8m、幅2.3m、高さ1.8m、
埋葬用の空間である玄室(げんしつ)部は長さ5.1m、幅3m、高さ2.6mあります。
玄室の天井石には15㎡もある巨大な石が使われ、アーチ状に削られています。
大化の改新で左大臣に就いた安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ=阿倍内麻呂)
の墓と見られています。
内麻呂は大化5年3月17日(649年5月3日)に亡くなったとされています。
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玄室内には弘法大師が刻まれたとされる「願掛け不動」が祀られています。
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「文殊院西古墳」の上方に鐘楼があります。
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鐘楼の横を登って行くと稲荷神社があります。
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「文殊院西古墳」から左側へ進むと本堂があります。
本堂を拝観するには700円、金閣浮御堂霊宝館との共通拝観料は
1,200円になります。
拝観料を納めると、まず向かいにある客殿五台閣へと案内され、
抹茶とお菓子を頂きます。
その後、本堂へと通されます。

安倍文殊院は安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として、
現在の文殊院の西南約300mの地に創建されましたが、
文治元年(1185)に焼失しました。
鎌倉時代の文暦元年(1234)に現在地に移されました。
旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、
史跡公園として整備されています。
『東大寺要録』に、安倍倉梯麻呂に建立された東大寺末寺の「崇敬寺」の
記載があり、「安倍寺」と呼ばれていたことが残されています。
永禄6年(1563)、松永久秀が多武峰衆徒と戦った際に、安倍寺も攻められ、
全山焼失し、現在の本堂(文殊堂)は寛文5年(1665)に再建されました。
人母屋造本瓦茸七間四面の建物で、前には礼堂(能楽舞台)があります。
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本堂の右側に釈迦堂が連なっています。
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左側に大師堂、本坊、庫裡が並ぴ庭園を隔てて方丈客殿へと連なっています。

明治元年(1868)、神仏分離令により安倍寺の寺領は没収され、
「安倍文殊院」と改称されました。
多武峯より丈六の釈迦三尊他多数の仏像を引き取り、
三輪・大御輪寺より、客殿が移築されました。

本尊は騎獅文殊菩薩像(きしもんじゅぼさつぞう)で、
脇侍の4躯と共に国宝に指定されています。
像高は7mあり、日本最大の大きさを誇り、その迫力には圧倒されます。
鎌倉時代の建仁3年(1203)に仏師・快慶によって造立されました。
この時期、安倍文殊院の本山である東大寺が、平安時代末期の
治承4年(1181)に平重衡による南都焼討によって焼失したため、
東大寺の復興が行われていました。
東大寺・南大門の金剛力士像の造立に大仏師として携わっていた快慶が、
この年の秋に行われる東大寺総供養に間に合うようにと、
文殊菩薩像が造立されたと考えられています。

脇侍には右側に善財童子像(ぜんざいどうじぞう)、優填王像(うてんおうぞう)、左側に維摩居士像(ゆいまこじぞう=最勝老人)、
須菩提像(しゅぼだいぞう=仏陀波利三蔵)が安置されています。
永禄6年(1563)の兵火により、維摩居士像と獅子像が焼失し、
安土・桃山時代に後補されました。

堂内の右奥にある釈迦堂には釈迦三尊像、その手前には普賢菩薩像や
地蔵菩薩像、不動明王像などが安置されています。
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本堂を出て本坊の前には「伊勢神宮への大道標」が建立されています。
かって、安倍寺の仁王門があったことで「仁王堂の辻」との地名になった
伊勢街道に南向きに絶設置されていました。

江戸時代、伊勢街道は大坂から竹之内峠を経て、大和八木から仁王堂の辻、
そして長谷寺を経て伊勢へと続く重要な街道でした。
飛鳥時代には、伊勢街道の仁王堂の辻から時の都であった明日香や
吉野へと至る古道は「磐余の道(いわれみち)」と呼ばれていました。
磐余とは、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地とされ、この地には
履中天皇の磐余稚桜(いわれ わかざくら)宮、清寧天皇(せいねいてんのうの
磐余甕栗(いわれ みかくり)宮、継体天皇の磐余玉穂(いわれ たまほ)宮、
用明天皇の磐余池辺双槻(いわれ いけべ なみつき)宮と四天皇の
宮都があったといわれる地域でもあります。

この道標は平成20年(2008)に神仏霊場巡礼の道が開創されたことを記念して、
現在地に移設されました。
安倍文殊院は神仏霊場巡拝の道・第34番札所の他、大和ぼけ封じ霊場、
大和十三仏霊場・第3番(文殊菩薩)、大和七福八宝めぐり(弁財天)、
大和北部八十八ヶ所霊場・第82番の各札所になっています。
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金閣浮御堂へ向かいます。
金閣浮御堂のある「文殊池」は昭和16年(1941)に造られ、
浮御堂は昭和60年(1985)に完成しました。
浮御堂は、阿倍仲麻呂安倍晴明など安倍一族を祀るために建立され、
開運弁才天を本尊としています。
堂内には仲麻呂像や晴明像、厄除け守護の九曜星の神々、方位災難除けの
十二天御尊軸が安置されています。

金閣浮御堂の受付けでは、「肌守り」と7枚の「おさめ札」が授与されます。
浮御堂の正面に「おさめ箱」があり、堂の周囲を左回りに一周して
「おさめ札」を「おさめ箱」へ納めます。
7周して全ての札を納めてから堂内へと入り、参拝することで七難即滅、
七福即生の御利益があるとされています。
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金閣浮御堂の東側に不動堂があります。
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不動堂の東側に西国三十三所と四国八十八ヶ所の各本尊の石仏が祀られています。
江戸時代に安倍山境内地に霊場が開かれていたそうで、
現在はこの地にまとめられて祀られています。
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東へ進んだ奥の方に白山神社があり、室町時代の社殿で
国の重要文化財に指定されています。
祭神は白山比咩神(しらやまひめのかみ)で、菊理媛神
(くくりひめのかみ)と同一神とされ、伊弉冉尊(いざなみ)と
伊奘諾尊(いざなぎ)を仲直りさせたとして、縁結びの神とされています。
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白山神社の横には、白山大権現の本地仏とされる十一面観音像が祀られています。
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観音像の北奥に飛鳥時代の閼伽井古墳(東古墳)があります。
羨道(せんどう)の中程に湧水があり、閼伽水または智慧の水と呼ばれています。
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窟内には石仏が祀られています。
石室規模は全長13m、玄室の長さ4.69m、幅は奥壁部で2.29m、
玄門部で2.67m、高さ2.6m、羨道の長さ8.31m、幅は玄門部で1.75m、
羨門部で2.04mあります。
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古墳から戻り南側の「合格門」と記された門を入り山手へと登ります。
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文殊池の東側に築かれたコスモス畑の迷路が見下ろせます。
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標高103mのこの地で、かって安倍晴明が天文観測をしていたとされ、
「天文観測の地」の石碑が建立されています。
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平成12年(2000)に新しく建立された晴明堂があり、魔除け、方位除けに
ご加護が受けられるとされる「如意宝珠」が置かれています。
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またウォーナー塔があり、第二次世界大戦で奈良や京都の文化的価値を
上層部に説得され、空爆リストから外された功績から建立されています。

安倍文殊院には約1時間滞在し、西国三十三所・第7番札所の岡寺へ向かいます。
続く