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本殿との並びの左側に三井神社があります。
三井神社も本宮と同じように周囲を玉垣で囲われ、正面に棟門があり、
門を挟んで東西の廊下があります。
『風土記』山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社
(たてくらのさとみつみのやしろ)」、『延喜式』には「三井ノ神社」と
記されています。
奈良時代から平安時代にかけて、下鴨神社が位置する辺り一帯は
蓼倉郷と呼ばれていました。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその妻、
伊可古夜日売命(いかこやひめのみこと)とその子、
玉依媛命(たまよりひめのみこと)の三神が祀られていることから
三身社と称されました。
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現代の社殿は江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
西側に並ぶ末社の配置も平安時代の社頭絵図から変化なく鎮座し、
神社内のすべてが国の重要文化財に指定されています。

画像はありませんが、三井神社の左側に大炊殿(おおいどの)があり、
神饌のための御料を煮炊き、調理する場所でした。
文明2年(1470)、応仁・文明の乱で焼失する以前には、魚介鳥類を調理する
贄殿(にえどの)もありましたが、現在は大炊殿のみが再建されています。
井戸の「御井(みい)」があり、神饌の御水や若水神事などの際に用いられ、
国の重要文化財に指定されています。

大炊殿の左側に御車舎があり、葵祭の牛車が置かれています。
敷地内には「葵の庭」が再興されています。
かって庭には、下鴨神社の社紋である双葉葵が自生していました。
徳川家の家紋三つ葉葵は、この双葉葵に一葉加えて回転させたものです。

大炊殿の並びに末社・印納社があり、その左側に愛宕社(おたぎしゃ)・
稲荷社があります。
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三井神社の前に白玉椿の木が植栽されています。
江戸時代の寛政5年(1753)に光格天皇が参拝された際に奉納されたもので、
雪の白さに匹敵する花を付けることから「擬雪」と名付けられました。
同椿は三井家にも保存されていて、平成27年の第34回式年遷宮で三井社の
修理が行われた際に、枯れ死した先代に代り新たに三井グループによって
奉納されました。
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三井神社の前方に供御所があり、寛永5年(1628)度の式年遷宮で
造り替えられたもので、国の重要文化財に指定されています。
御所内は東、中、西の三間に分かれています。
東の間は、供御所で神饌を調理する所、中の間は贄殿(にえどの)で
魚介鳥類を調理する所、西の間は侍所(さぶらいどころ)で神官などが参集し、
直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などが行われます。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を
神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。
古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると
考えられてきました。
この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義である
ということができます。
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供御所の右方向に神福殿(しんぷくでん)があり、寛永5年(1628)度の
式年遷宮で造り替えられたもので、国の重要文化財に指定されています。
かって、夏・冬の御神福を奉製する御殿であったことが
その名の由来になっています。
近世以降は勅使殿または、着到殿となり、
古来殿内の一室が行幸の際は玉座となりました。
北西にある一室が「開かずの間」として伝えられ、御所が被災の際は
臨時の御座所と定められています。
江戸時代の安政元年(1854)に発生した南海トラフの大地震では
孝明天皇が移ったとの記録が残されています。
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神福殿の左側に媛小松(ひめこまつ)が植栽されています。
寛平元年(889)11月から賀茂祭で東遊(あずまあそび)が奏されたとあり、
その二段目「求め子」で詠われる藤原敏行の歌、
「ちはやぶる 鴨の社の姫小松 よろず世ふとも色はかはらじ」に因むものです。
「媛」の字が使われているのは、祭神の玉依媛命によるものです。
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媛小松の前にも解除所(げじょのところ)があります。
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供御所の後方に出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)があり、
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
出雲井於神社は『日本書紀』に「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)
とある人々が祖神として祀った神社」とされています。
その後、文武4年(700)にほぼ完成した大宝令(たいほうりょう)以降、
山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの
地域が愛宕郡(おたぎぐん)となり、鴨川の東岸が蓼倉郷(たでくらごう)、
西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社
との意味になります。
厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊(ひいらぎ)」となって
願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、
「京の七不思議」に数えられていました。
そのことから柊神社、比良木神社(ひらきじんじゃ)とも呼ばれました。

現在の社殿は、寛永6年(1629)の式年遷宮のときに天正9年(1561)に造営された
賀茂御祖神社(下鴨神社)本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では
最も古い社殿になり、国の重要文化財に指定されています。

境内末社は、北社が岩本社で住吉神が祀られ、南社の橋本社には
玉津島神(たまつしまのかみ)が祀られています。
社殿はともに重要文化財に指定されています。
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馬場を南へ進んだ右側に雑太社(さわたしゃ)がありますが、
「仮殿」になっています。
雑太社は、元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として
祀られていた神社です。
神舘御所は下鴨村の南にあり、賀茂祭の時に内親王が清服に改める所とあります。

その後、応仁・文明の乱で鴨社神舘御所は焼失し、
雑太社は鴨社神宮寺域へ遷されました。
しかし、宝永5年(1708)に鴨社神宮寺も火災を受け、河合神社へと遷されました。
第二十三回・正徳元年(1711)式年遷宮では、神宮寺域内にあった
日吉神社との相殿となり、昭和34年の第三十二回式年遷宮事業により
造替のため昭和20年末に解体され、遷宮事業が遅延のため現在も仮殿のままです。

雑太社の右側に「第一蹴の碑」が建立されています。
明治32年(1899)、日本に伝わったラグビー(蹴球)は、
明治43年(1910)になって、京都に伝わり、糺の森でラグビーの
「第一蹴」が行われたとされています。
この「第一蹴の碑」は、昭和44年(1969)に三校(京都大学の前身)
蹴球部OBによって建立されました。
2019年、日本で開催されるラグビーワールドカップの抽選会が、
2017年5月に京都迎賓館で行われ、日本はプールAと決まりましたが、
その抽選に先立ち、各国の関係者が「第一蹴の碑」と「雑太社」の前に集まって、
蹴鞠の奉納・体験が行われました。

下鴨神社は、特に本宮及び大炊殿周辺の画像が撮れていなかったので、
後日追加したいと思います。

応仁の乱発祥の地とされ、神仏霊場・第100番札所の
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)へ向かいます。
続く