毘沙門堂から三条通へ戻り、西へ進んだ「五条別れ」の信号を左折し、
その先の渋谷街道と交わる「山科団地北」の信号を右折して渋谷街道を西進します。
「フレスコ北花山店」を通り過ぎ、「ドラッグ・ユタカ」前の細い路地を右折、
「フレスコ北花山店」を通り過ぎ、「ドラッグ・ユタカ」前の細い路地を右折、
北上した正面に元慶寺があります。
渋谷街道沿いに立て看板があり、それが目印となります。
路地を入った右側に数台の駐車場があります。
渋谷街道沿いに立て看板があり、それが目印となります。
路地を入った右側に数台の駐車場があります。
元慶寺は山号を華頂山と号する天台宗の寺院で、平安時代の貞観10年(868)に、
清和天皇の女御であった藤原高子(ふじわら の こうし)が
貞明親王(後の陽成天皇)の誕生に際して発願し、
僧・遍昭を開基として創建されました。
当初は定願寺と称されていましたが、元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、
当初は定願寺と称されていましたが、元慶元年(877)に清和天皇の勅願寺となり、
年号から寺号を元慶寺と改称されました。
元慶寺が立地する北花山は、山科七郷の一つで、飛鳥時代の
元慶寺が立地する北花山は、山科七郷の一つで、飛鳥時代の
第38代・天智天皇の時代は「華頂」を郷名としていました。
その郷名が山号になったと思われます。
その郷名が山号になったと思われます。
寛和2年(986)、藤原兼家、道兼父子の策略により花山天皇が出家させられる
巡礼を復興した縁で、元慶寺は番外札所となっています。
室町時代の応仁・文明の乱で被災してからは荒廃し、
寺域は縮小され小堂があるだけの寺院となりました。
江戸時代の安永8年(1779)になって、ようやく再建が始まり、
天明3年(1783)に落慶し、入仏供養が行われたとの記録が残されています。
山門は唐風の龍宮造の鐘楼門で、寛政4年(1792)に再建されました。
山門に安置されていた梵天と帝釈天は、現在は京都国立博物館に寄託されています。
梵鐘は、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目です。
山門に安置されていた梵天と帝釈天は、現在は京都国立博物館に寄託されています。
梵鐘は、菅原道真が勅命により元慶寺のために詠んだ漢詩が刻まれた三代目です。
山門をくぐった正面に納経所があります。
山門を入った左側に寛政元年(1789)に再建された本堂があります。
本尊は遍昭作の薬師瑠璃光如来で、花山法皇の宸影などが安置されています。
本尊は遍昭作の薬師瑠璃光如来で、花山法皇の宸影などが安置されています。
画像はありませんが、境内に祀られている鎮守社の六所神社があります。
仁和3年(887)に遍昭が天照皇大神、熱田大神、賀茂大神、八幡大神、春日大神、
仁和3年(887)に遍昭が天照皇大神、熱田大神、賀茂大神、八幡大神、春日大神、
日吉大神を勧請して創建されました。
現在は、東海道線・東山トンネルの山科側入口近くに六所神社あり、
現在は、東海道線・東山トンネルの山科側入口近くに六所神社あり、
北花山の産土神として祀られています。
カメラの調子が悪く、画像が十分に掲載できませんでした。
後日再度訪問して、画像と記事を追加掲載の予定です。
近畿三十六不動尊・第24番札所の岩屋寺へ向かいます。
続く
続く