蓮華王院から少し西へ進み、国立博物館沿いに北進した所に
豊国神社(とよくにじんじゃ)があります。
豊国神社は豊臣秀吉が祀られ、秀吉没後の翌年の慶長4年(1599)4月13日、
遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、
その麓に高野山の木食応其(もくじきおうご)によって廟所が
建立されたのが始まりです。
その後、豊臣家が滅亡し、徳川家康の意向によって「豊臣大明神」の神号は
剥奪され、神社自体も廃絶されました。
旧参道内には新日吉神社(いまひえじんじゃ)が移設され、旧社殿に
参拝するための通路も閉鎖され、北政所の嘆願で残された
社殿も朽ちてしまいました。
慶応4年(1868)、明治天皇が大阪へ行幸した時、秀吉の偉勲を賞賛し、
豊国神社の再興を布告する沙汰書を下し、新日吉神社の神楽殿を仮社殿として
再興されました。
明治8年(1875)、方広寺の境内を割いて社地が与えられ、仮社殿が建立され、
明治13年(1880)に方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が竣工し、
翌年遷座が行われました。
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大和大路通に面して巨大な石組が施され、国の史跡に指定されています。
旧大仏殿の石塁で「太閤石垣」とも呼ばれ、南北約260m、東西約210mの
伽藍を囲い、石塁上には回廊が建立されていました。
かってこの地には仏光寺がありましたが、秀吉の別荘があった
現在地へ移転させられました。
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石垣沿いに北へと進んだ所に鳥居が建立されています。
かっては仁王門があり、西への通りは大仏殿の正面に当たることから
「正面通」と呼ばれています。
大仏殿は、当初は東福寺南方にある遣迎院(けんこういん)付近に造立する予定で、遣迎院は移転を余儀なくされたのですが、途中で中止され、
遣迎院は南北に分断されることになりました。
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鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
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右側に社務所があります。
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参道を進んだ先に唐門があり、国宝に指定されています。
元は伏見城で建立されたと伝わり、その後二条城に移築され、
寛永4年(1627)に江戸幕府から南禅寺塔頭の金地院が譲り受け、
その後廻り回って豊国神社に移築されました。
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唐門には「豊国大明神」の扁額が掲げられています。
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唐門の先は立ち入りはできず、唐門の先に拝殿があり、
その奥に拝所がありますが、本殿を見ることはできません。
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唐門から北側に進んだ所に槇本稲荷神社があります。
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慶応4年(1868)に左京区の熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)から
勧請されました。
熊野若王子神社は永暦元年(1160)に後白河法皇が禅林寺(永観堂)の
守護神として熊野権現を勧請され、創建されました。
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槇本稲荷神社から北へ進むと方広寺の鐘楼があります。
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梵鐘は慶長19年(1614)に豊臣秀頼により再鋳され、高さ4.2m、外形2.8m、
厚さ0.27m、重さ82.7tあり、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は三条釜座で延べ3100人が従事して製作され、銅や錫と金も1t含まれ、
ほぼ同じ大きさの知恩院の鐘より10t重くなっています。
梵鐘の銘文「「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の「家」と「康」を
分断し、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、
大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされています。
梵鐘は家康により破壊されることはありませんでしたが、長らく現在の
国立博物館付近に雨ざらしで放置されていましたが、明治になって
現在地に鐘楼が再建され、梵鐘が移されました。
鐘楼の天井には天女図が描かれています。
東大寺、知恩院とともに日本三大名鐘の一つに数えられています。
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現在の本堂は明治11年(1878)に再建されました。
豊臣秀吉は天正16年(1588)に高野山の木食応其(もくじきおうご)を
任に当たらせ、大仏殿の造営を開始しました。
小田原征伐を挟んで天正19年(1591)5月に立柱式が行われ、
文禄2年(1593)9月に上棟、文禄4年(1595)にようやく完成しました。
完成した大仏殿は、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという
壮大なものでした。
東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の、木造金漆塗りの
大仏坐像が安置されましたが、翌年の文禄5年(1596)に発生した
慶長伏見地震により倒壊しました。
大仏殿は倒壊を免れ、慶長2年(1597)に善光寺如来(阿弥陀三尊)を安置し、
大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれるようになりました。
しかし、翌慶長3年(1598)、秀吉は病に倒れ、善光寺如来の祟りとされ、
像は善光寺へ戻されました。
同年秀吉は息を引き取り、豊臣秀頼が父の遺志を継ぎ慶長4年(1599)に
大仏の復興を開始します。
秀吉が当初計画していた銅造での復興を目指したのですが、慶長7年(1602)に
流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、大仏殿とともに焼失しました。

慶長13年(1608)より再建が開始され、慶長15年(1610)6月に地鎮祭、
同年8月に立柱式が行われ、慶長17年(1612)には大仏に金箔を
押すところまで完成しました。
慶長19年(1614)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を
待つばかりとなったのですが、家康からは中止の求めがありました。
「方広寺鐘銘事件」は徳川・豊臣の争いに発展し、
「大坂の陣」で豊臣家は滅亡しました。
残された大仏は寛文2年(1662)の地震で大破し、
木造で造り直されることになりました。
寛政10年(1798)、大仏殿に雷が落ち、大仏もろとも焼失し、
本堂まで延焼しました。

天保年間(1831~1845)に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より
上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進したのですが、
昭和48年(1973)3月28日の深夜の火災により焼失しました。
現在の本堂には本尊の盧舎那仏坐像が安置されています。
2回目に造られた大仏を模し、1/10サイズに縮小して木造で金箔が張られています。
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本堂の東側は大国堂になっています。
伝教大師最澄が、桓武天皇の勅命により延暦寺を建立するため比叡登山中、
大黒天を感得し、自ら像を刻んだとされている像が安置されています。
さらにその像を秀吉が気に入り、1/10サイズで造らせ手元に置いていたと
伝わる、その像も安置されています。
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豊国神社沿いの細い通路を東へ進んだ所に「大仏殿跡緑地」があります。
明治維新後、上地令により方広寺境内の多くが没収され、豊国神社の背後のみ
「大仏殿跡緑地」として宅地化されずに残されています。
遺構が板石によって示されていますが、今は巨大だった大仏殿を
想像することさえできません。
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緑地から豊国神社の本殿を背後から見ることができます。
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本殿の南側には大正14年(1925)に建立され、北政所が祀られている摂社の
「貞照神社(さだてるじんじゃ)」が見えます。
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豊国神社の鳥居まで戻り、正面通を西へと進んだ所に「耳塚(鼻塚)」があり、
方広寺石塁とともに石塔として史跡に指定されています。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、
慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ
持ち帰ったものを葬った塚です。
慶長2年(1597)に築造され、同年9月28日に施餓鬼供養が行われました。
寛永2年(1643)の古絵図には、既に石塔が描かれ、
塚の築造後間もなく建てられたとみられています。
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更に西へと進むと鴨川に正面橋が架けられています。
秀吉が大仏殿を創建した際に五條大橋を六条へと移しましたが、
当時はまだ正面通は鴨川の西に無く、架橋されませんでした。
江戸時代の天保2年(1831)頃に鴨川以西の正面通が開かれ、
これ以降に橋が開通したとみられています。
昭和10年(1935)の鴨川大洪水で橋が流され、現在の橋は昭和27年(1952)に
架けられましたが、正面通にはやや斜めに架けられています。

次回は冬の青春18きっぷを使用して日吉大社から
琵琶湖を周遊して長浜へ向かいます。