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バイクで自宅を6:00に出発し、国道1号線から国道170号線(外環状線)に入り、
南へ進み「白鳥北」の信号を左折して東高野街道(旧170号線)を進んだ先に
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の東門があり、
門を入った所が駐車場となっています。
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東門から進んだ先に鳥居が建立され、拝殿まで真っ直ぐに参道が伸びています。
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鳥居の手前右側に放生池があり、池の中には埴輪が祀られています。
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放生池の向かいには神庫があります。
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「誉田林古戦場跡」の碑が建立されています。
かってこの地は戦略上の要地であったことから、
過去に何度か戦の舞台となっています。
延元元年/建武3年(1336)、楠木正成が湊川の戦いで敗れ自害した後、
正成の子・楠木正行(くすのき まさつら)が成長すると、
本拠地である河内国南部で次第に勢力を蓄えていきました。
正平2年/貞和3年(1347)9月、この地で楠木軍は細川顕氏
(ほそかわ あきうじ)を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破りました。
しかし、本格的な南朝攻撃を決意した足利方は、
高師直(こう の もろなお)を大将とする大軍を編成して河内に派遣し、
正平3年/貞和4年(1348)1月5日に四條畷の戦いが始まりました。
足利方の圧倒的な兵力の前に楠木軍は敗れ、
正行は弟の正時と刺し違えて自決しました。
勢いに乗った高師直は、南朝の本拠である吉野に攻め入り陥落させ、
後村上天皇はじめ南朝は賀名生(五條市)に逃れました。
室町時代中期の享徳年間(1452~1454)には畠山長政と従兄の畠山義就
(はたけやま よしひろ/よしなり)が、家督相続により再三に渡って
誉田合戦が行われ、後の応仁・文明の乱(1467~1477)の一因となりました。
応仁・文明の乱の後も長政の子・畠山尚順(はたけやま ひさのぶ)と
義就の子・畠山義豊(はたけやま よしとよ)の対立が続き、
明応8年(1499)に義豊が尚順に敗れて戦死したことにより義豊の子・
畠山義英(はたけやま よしひで)が家督を継承しました。
その後、畠山尚順は細川政元に攻められ、敗北すると永正元年(1504)に
畠山義英と和議となり、誉田八幡宮で「社前の盟約」が結ばれました。
大坂夏の陣では誉田八幡宮の境内に陣を置いた薄田兼相(すすきだ かねすけ)が「道明寺の戦い」に出陣しましたが、霧の発生により先陣の後藤基次
到着から8時間以上も到着が遅れてしまいました。
兼相が到着する直前に後藤基次は戦死し、兼相も奮戦しましたが討ち死にしました。
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「誉田林古戦場跡」の碑の奥に納蔵庫があります。
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参道の北側に恵比須神社があります。
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恵比須神社の左側にある神馬像
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神馬像の左側にある姫待稲荷社
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参道の正面に拝殿がありその前には「右近の橘」と「左近の桜」が
植えられています。
平安宮内裏の紫宸殿(南殿ともいう)の前庭に植えられている
桜と橘が起源とされています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、
左近は紫宸殿の東方に、右近は西方に陣を敷き、
その陣頭の辺に植えられているのでこの名があります。
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拝殿は間口11間、奥行3間の割拝殿で、本殿を防御するかのように
左右に長く建てられています。
社伝では欽明天皇20年(559)に第29代・欽明天皇により、応神天皇陵前に
神廟が造営されたことをもって創建とされています。
永承6年(1051)に第70代・後冷泉天皇の行幸があり、その際元の鎮座地から
1町ほど南の現在地に遷座されました。
建久7年(1196)には源頼朝によって社殿の修復が行われています。
八幡神は源氏の氏神とされ、源姓を名乗る歴代の征夷大将軍をはじめ、
武家の信仰を受けました。
享徳3年(1454)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより
社殿・伽藍を焼失し荒廃し、その後河内国を支配下に置いた織田信長により、
社領をすべて奪われました。
豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建しましたが、
天正14年(1586)に社殿が焼失しました。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐且元(かたぎりかつもと)を
任命し、再建を行いました。
拝殿は、八割方出来上がった時に大坂夏の陣が起こり、豊臣家が
滅んでしまったため、そのまま放置されていました。
その後、江戸幕府第3代将軍・徳川家光が再建工事を続行し、
寛永年間(1624~1645)の初期に竣工したものと考えられています。
向拝部分は唐破風造りで、徳川家の三つ葉葵の定紋が付けられています。
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本殿は第15代・応神天皇と父である第14代・仲哀天皇及び母である神功皇后
主祭神とし、住吉大神が配祀され、最古の八幡宮とされています。
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本殿の右側に式内社の当宗神社(まさむねじんじゃ)があります。
かっては漢朝によって設置され、313年まで朝鮮半島北部に存在した
楽浪郡(らくろうぐん)から渡来した当宗家主(まさむね の いえぬし/やかぬし)
の祖神である山陽公が祀られていたと推定されています。
当宗家主は後漢第14代皇帝・献帝(けんてい)の四世孫・山陽公の
後裔とされています。
山陽公とは古代中国の役職で、皇位を失った献帝に兗州(えんしゅう)の
山陽郡が与えられたのですが、領地を直接支配したわけでも、
現地に赴いたわけでもなく、山陽郡からのあがりを生活費として支給されて、
洛陽の屋敷に軟禁されていました。
献帝の没後も山陽公はそのまま存続が許されました。
当宗家主一族の旧地が東高野街道と放生川(碓井川=うすいがわ)との
交差点の北東から8㎡に残されているそうです。
往昔は勅使が参向して神事が行なわれ、崇敬も厚かつたとされていますが、
中世になつて社運は衰退し、明治2年(1869)の神祇官制度により
無格社となりました。
明治40年(1907)11月16日に誉田神社(現・誉田八幡宮)に合祀され、
祭神は素盞鳴命に改められました。
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誉田八幡宮と応神天皇陵を横切る放生川には、長さ5.8m、幅2.5m、
高さ4.8mの「放生橋」と呼ばれる反り橋が架けられています。
橋が架けられたのは江戸時代前半と推定され、
その後何度かの修理が行われています。
9月15日の秋季大祭では、応神天皇の神霊をのせた神輿が、
本殿から応神天皇陵へ渡御する神事が執り行われますが、見るからにも
この橋を渡るのは困難で、現在ではその横の平橋が使われています。

応神天皇陵は、墳丘長約425mで国内最大の仁徳天皇陵に次ぐ
大きさの前方後円墳です。
体積の143万3960㎥は日本一とされています。
前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っているため、
奈良時代の天平6年(734)と戦国時代の永正7年(1510)にこの地で
内陸直下型の大地震があったため、前方部の一部が崩れています。
住吉大神の神託により三韓征伐に出兵した神功皇后が、その帰途に
九州の筑紫国で出産したのが応神天皇とされています。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、景行天皇の孫である仲姫命
(なかつひめのみこと)を皇后とし、後の仁徳天皇をもうけました。
『日本書紀』によると応神天皇14年(283)に弓月君
(ゆづきのきみ=秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し
援軍を求めました。
弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたですが、
新羅の妨害に遭っていました。
天皇は新羅国境に精鋭部隊を派遣して新羅を牽制し、
弓月君の民は無事に渡来することができました。
秦氏(はたうじ)は土木や養蚕、機織などの技術をもたらし、
技術の改革や文化の振興が行われました。
また松尾大社や伏見稲荷大社を氏神として祀りました。
天皇が崩御されて後、宇佐の地に示顕され、八幡神として
祀られるようになりました。
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「放生橋」から戻ります。
拝殿の左前方に絵馬堂があります。
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絵馬堂の左側に安産社があり、槐(エンジュ)の木が植えられています。
神功皇后が応神天皇出産の際に槐の木で産殿の柱を造らせたと伝わります。
また、永承6年(1051)に第70代・後冷泉天皇の皇后が懐妊されたある日、
皇后の夢枕に老婆が立ち、「安産を願うなら吾を祭るべし」と告げました。
老婆は木の下に立ち、その姿はさながら鬼のごとくでした。
これを聞いた天皇は、「木に鬼は即ち槐の木で、槐の木をもって産屋を
営むべしとの夢現であろう」と述べられ、誉田八幡宮の境内にあった
枝を伐りとり、これを産室の上に吊るして安産を祈念されると、
皇子が無事に安産で誕生されたと伝わります。
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安産社の左側に南大門があります。
奈良時代に行基によって創建された神宮寺である長野山護国寺の門でした。
天保9年(1838)の『誉田八幡宮古図』では、護国寺の本堂がは
この南大門の西方正面に位置していることが記されています。
搭頭十五坊を誇っていましたが、明治初年の廃仏毀釈により大半の
建物が取り壊され、現在は南大門のみが残っています。
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応神天皇陵の北側には仲姫命陵があります。

道明寺へ向かいます。
続く