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二月堂は天平勝宝4年(752)に実忠(じっちゅう)によって創建された、
正面(間口)が7間、奥行きが10間の懸造の建物です。
二月堂は、治承4年(1180)の平重衡の兵火と永禄10年(1567)の
三好・松永の兵乱からの焼失を免れましたが、寛文7年(1667)に
修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失しました。
現在の建物は寛文9年(1669)に再建されたもので、国宝に指定されています。
寺伝では天平勝宝3年(751)に実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の
龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(とそつてん=兜率天)
内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の
十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていました。
悔過とは自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することであり、
実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったのですが、そのためには
生身の十一面観音を祀らねばならないと告げられました。
下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの
補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養しました。
すると、その甲斐あってか、100日ほどして
生身の十一面観音が海上から来迎しました。
実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったと伝わります。
二月堂では旧暦の2月、二七日(にしちにち、14日間の意)にわたって
修二会が執り行われることから「二月堂」と呼ばれています。
修二会とは、二月堂本尊の十一面観音に対して自らの過ちを懺悔し、
国家の安定繁栄と万民の幸福を祈願する十一面悔過(けか)法要です。
現在では新暦の3月1日から14日まで、法要は練行衆と呼ばれる、
特に選ばれた11名の僧によって執り行われています。
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法華堂北門を出て、石段を上った正面に唐破風(からはふ)造りの
豪華な手水舎があります。
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手水舎の右側の石段の上に飯道神社(いいみちじんじゃ)があります。
実忠ゆかりの地である近江国甲賀郡の飯道神社が勧請されたものと
考えられています。
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二月堂の本尊は二躯の十一面観音菩薩像で、1躯は内陣中央に安置され、
「大観音」(おおがんのん)と称され、もう1躯は厨子に納められ、
通常は大観音の手前に安置されているもので、
「小観音」(こがんのん)と称されています。
大観音・小観音ともに絶対の秘仏で、修二会の法要を務める
練行衆さえもその姿を見ることは許されません。
修二会が行われる14日間のうち、上七日(じょうしちにち・前半の7日間)は
大観音が本尊とされ、下七日(げしちにち・後半の7日間)は代わって
小観音が本尊とされています。
小観音の厨子は2月21日に「御輿洗い」と称して、礼堂に運び出されて、
丁寧に拭き清められます。
その後、大観音の手前ではなく背後に安置され、修二会の前半の上七日の間は
大観音が法要の本尊となり、小観音は陰に隠されます。
3月7日の夕方から深夜にかけて「小観音出御(しゅつぎょ)」と
「小観音後入(ごにゅう)」という儀式が執り行われます。
「小観音出御」は3月7日午後6時頃から行われ、大観音の背面に安置されていた
小観音の厨子が礼堂に運び出され、香炉、灯明、花などで供養されます。
その後、深夜0時過ぎには「小観音後入」が行われ、礼堂に運び込まれた
厨子を再び内陣に戻す儀式で、下七日の本尊として大観音の正面に安置されます。
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二月堂の東側を進んだ所にも手水所があります。
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二月堂の北側からの眺望
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二月堂の北側に茶所があります。
茶所付近に遠敷明神(おにゅうみょうじん)を祀る遠敷神社が
あったようですが見落としました。
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茶所と二月堂の間に登廊があります。
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登廊を下った正面の右側に「練行衆」の入浴施設である湯屋があり、
左側は参籠所と接続されています。
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湯屋の間を通り抜け、下からの光景です。
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湯屋から下ってきた斜め前の建物の前に井戸らしきものが見えます。
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当初はこの井戸の後ろにある建物が湯屋だと思っていたのですが、
違っていたようで、この建物の詳細は不明です。
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参籠所は室町時代に再建されたもので国の重要文化財に指定されています。
参籠所は修二会で儀式を行う「練行衆」が期間中に寝泊りするための施設で、
北半分が参籠所、南半分が食堂となっています。
修二会の期間中、練行衆が参籠所から登廊を上り二月堂へ向かう際に、
練行衆一人ひとりを松明(たいまつ)が先導します。
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食堂の西面には鬼子母神が祀られています。
鬼子母神は多くの子を持ち、それらの子を育てる栄養を摂取するために
人間の子供を捕えて食べていました。
それを見かねた釈迦から五戒を守り、施食によって飢えを満たすことを
諭(さと)され、仏法の守護神となりました。
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参籠所の南側に閼伽井屋があり、現在の建物は鎌倉時代初期に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
閼伽井屋の中の井戸は「若狭井」と名付けられています。
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閼伽井屋の東に良弁杉が聳え、その傍らに
興成神社(こうじょうじんじゃ)があります。
二月堂の修二会行法(お水取り)を守護する三社の一つで、
鵜が祀られていました。
東大寺の僧・実忠は、天平勝宝4年(752)に二月堂を創建し、
修二会を始めました。
修二会にはすべての神々が参列されましたが、
ただ若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん=彦姫神)のみは
川で魚を採っていたため遅参されました。
そのお詫びとして、二月堂の本尊へお香水を送る約束をされました。
若狭の鵜の瀬から白と黒の二羽の鵜がもぐっていき、二月堂のほとり、
傍らに木が立つ岩の中から飛び立ち、その跡から湧水が満ちあふれたと伝わります。
それが二月堂の閼伽井で、「若狭井」と名付けられ、
その水を汲む行事「お水取り」が始まったと伝わります。
興成神社にはその白と黒の二羽の鵜が祀られています。
また、飯道神社、遠敷神社、興成神社の三社は、二月堂の鎮守社で、
「惣神所(そうのじんしょ)」とも呼ばれています。
練行衆は修二会の初日である3月1日の夕方と、法会終了後の3月14日深夜
(正確には15日未明)にこれら3社に参詣し、修二会のとどこおりない執行と、
法会の終了を感謝します。
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良弁杉には由来が記された石碑が建っています。
かって、この地には樹齢600年、高さ7丈(約21m)に及ぶ大木が
聳えていたと伝わり、良弁がまだ幼少だった頃に大鷲にさらわれ、
その木に飛来したと記されています。
昭和31年(1956)9月16日の台風によりその木は倒壊し、
現在の木はその枝から植樹されたものです。
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良弁杉と対面するように開山堂があります。
開山堂はかって、僧坊があった所に寛仁3年(1019)に創建され、
僧正堂と呼ばれていました。
その後、鎌倉時代の正治2年(1200)に重源上人によって大仏様の
四方一間の大きさの堂舎に改築され、建長2年(1250)に現在地に移築されました。

堂内、内陣の中央には八角造の厨子があり、
厨子内には良弁僧正坐像が安置されています。
良弁僧正坐像は像高92.4cm、平安時代の作で開山堂と共に
国宝に指定されています。
神亀5年(728)、第45代・聖武天皇の第一皇子・基親王(もといしんのう)が
一歳の誕生日を迎える前に亡くなり、菩提を弔むため、若草山麓に
金鍾山寺(こんしゅせんじ)を建立され、智行僧九人が住持しました。
その筆頭となったのが良弁で、後に金鍾山寺は大和国分寺と定められ、
東大寺となり、天平勝宝4年(751)には、東大寺大仏建立の功績により
東大寺の初代別当となりました。
天平勝宝8年(756)に鑑真と共に大僧都に任じられ、宝亀4年(773)には、
僧正に任命されましたが、その年の閏11月24日に亡くなりました。
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開山堂の南側に三昧堂(四月堂)があります。
三昧堂は平安時代の治安3年(1021)または治暦3年(1067)の創建と考えられ、
現在の建物は江戸時代の延宝9年(1681)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
毎年四月に法華三昧会(ほっけさんまいえ)が執り行われることから、
「四月堂」とも呼ばれています。
本尊は千手観音菩薩立像でしたが、東大寺ミュージアムに遷されたために、
二月堂から十一面観音菩薩立像が新たに本尊として遷されました。
また、堂内には阿弥陀如来坐像等が安置され、
共に国の重要文化財に指定されています。

手向山八幡宮へ向かいます。
続く