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金閣寺は山号を「北山(ほくざん)」寺号は正式には「鹿苑寺」と
号する相国寺の境外塔頭です。
室町幕府第三代将軍・足利義満の北山山荘を、義満の死後に寺としたもので、
義満の法号・鹿苑院殿にちなんで「鹿苑寺」と称されました。
義満の法号は釈迦が初めて説法をした所・「鹿野苑」によるものです。
平成6年(1994)にはユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の
構成資産に登録されています。
神仏霊場の第93番札所でもあります。
開門時間は午前9時ですが、既に数台の観光バスが駐車し、
門前には長い行列ができていました。
現在の駐車場にはかって、「北山大塔」と呼ばれる七重塔が建築されていました。
それに先立つ応永6年(1399)に義満は、相国寺に高さ109.1mの
七重塔を建立しました。
しかし、塔は応永10年(1403)に落雷により焼失し、
承応2年(1653)に後水尾上皇が大塔を再建されました。
その塔も天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地には
後水尾上皇の歯髪塚が残されています。
義満は相国寺七重塔の再建を目指し、応永11年(1404)にこの地で
七重塔の建立に着工したのですが、応永23年(1416)に
完成間近の塔に落雷があり、焼失しました。
平成27年(2015)の発掘調査で相輪の破片が見つかり、推定される直径から、
現存する東寺の五重塔(全高55m/相輪直径1.6m)の
相輪の高さは不明ですが、その1.5~2倍の高さがあったと推定されています。
総門は皇居から下賜されました。
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門をくぐって参道を進んだ北側に庫裏があり、
明応・文亀年間(1492~1504)の建物と考えられています。
昭和62年(1987)までは宿坊として使われていました。
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庫裡の先に方丈への唐門があります。
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庫裏の南側に鐘楼があり、梵鐘は鎌倉時代前期に鋳造されました。
西園寺家の家紋(巴紋)が入り、
その音色は「黄鐘調(おうじきちょう)」とされています。
鎌倉時代の元仁元年(1224)、この地には藤原公経(西園寺公経)が営む
広大な山荘「北山第(きたやまだい)」が造営されました。
境内に氏寺である西園寺が建立され、その寺名から
「西園寺」と称するようになりました。
南北朝時代の建武2年(1335)、七代目・公宗(きんむね)は、
後醍醐天皇を北山第に招き、暗殺を企てましたが発覚し、
処刑されました。
その後、北山第は衰微し、足利義満に譲られました。
足利義満は応永4年(1397)に荒廃していた北山第を、
改築や新築するなどして一新し、「北山殿」と称しました。
その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約され、
応永元年(1394)に子の義持に将軍職を譲った後も
北山殿で政務を執っていました。
義満のための北御所、夫人・日野康子のための南御所、後円融天皇の
母である崇賢門院のための御所、金閣と二層の廊下で繋がっていた
会所の天鏡閣、泉殿など数多くの建物が建ち並んでいました。
崇賢門院の姉妹の紀良子は義満の生母になります。
義満は応永11年(1404)から明との間で勘合貿易を開始し、
莫大な利益を得ました。
明の使者は度々北山殿に訪れています。
応永15年(1408)に義満が亡くなり、相国寺塔頭の鹿苑院に葬られましたが、
明治の廃仏毀釈で鹿苑院は廃寺となり、
現在では義満の墓所は定かではありません。
第4代将軍・足利義持は父・義満とは不仲で、北山殿に住んでいた
異母弟の義嗣を追放し、北山殿に入りました。
義嗣は義満から偏愛され、義満の後継者になると見られていましたが、
義満の急死により、後継者を遺言されることも無く、
将軍職は義持に引き継がれることになりました。
義嗣は応永23年(1416)に関東で起こった「上杉禅秀の乱」に乗じて
神護寺へ出奔しましたが、乱への関与を疑われ、
応永25年(1418)に義持により殺害されました。
義持は応永16年(1409)には北山殿の一部を破却し、
祖父の2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の住んでいた
三条坊門邸(京都市中京区)へ移り、北山殿は日野康子の居所となりました。
応永26年(1419)に日野康子が亡くなると、北山殿には舎利殿(金閣)、
護摩堂、法水院が残され、天鏡閣は南禅寺へ、寝殿は南禅院、
懺悔胴は等持寺、公卿の間は建仁寺へ移築されました。
応永27年(1420)に北山殿は義満の遺言により禅寺とされ、
夢窓疎石を開山とし、義満の法号「鹿苑院殿」から
「鹿苑寺」と称されました。

拝観受付で拝観料400円を納め、先へ進みます。
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庫裡の東側に本堂に相当する方丈があります。
方丈は安土・桃山時代の慶長7年(1602)に建立され、江戸時代の
延宝6年(1678)に後水尾天皇の寄進により建て替えられました。
平成17年(2005)から平成19年(2007)まで解体修理が行われました。
仏間には本尊の聖観音菩薩坐像が安置されています。
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南側に縁があり、その前に庭園が築かれています。
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方丈の西側の「陸舟(りくしゅう)の松」は、義満が盆栽として育てていた
松を移植し、帆掛け船の形に仕上げたと伝えられています。
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金閣は応永5年(1398)に舎利殿として建立されました。
創建当初は池の中にあり、北にあった天鏡閣と空中の廊下で繋がっていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の陣が敷かれ、
焼失は免れましたが、二層の観音像や、三層に安置されていた
阿弥陀如来と二十五菩薩像などが失われました。
また、庭園の樹木の大半が伐採され、池の水量も減っていました。
江戸時代の慶安2年(1649)に金閣の修復が行われ、
以後「金閣寺」と呼ばれるようになりました。
昭和25年(1950)7月2日未明、学僧の放火により金閣は全焼しました。
学僧は寺の裏山で自殺を図りましたが一命を取り留め、事情聴取のために
京都に呼ばれた母親は、その帰りに保津峡で投身自殺しました。
現在の金閣は、明治37年~39年(1904~6)の解体修理の際に作成された、
旧建物の詳細な図面や写真・古文書・焼損材等の資料を基に、
昭和27年(1952)3月22日から3年を掛けて復元再建されました。
焼失前と再建された金閣には細部に若干の違いがあり、現在は第二層にも
金箔が張られていますが、焼失前には見られず、
創建時に張られていたかも諸説あります。
焼失前に第二層の東面と西面の中央に窓がありましたが、
再建後は東面と西面は全て壁となりました。
昭和61年(1986)2月から1年8ヶ月かけて行われた「昭和大修復」では、
総工費約7億4千万円を投じて漆の塗り替えや金箔の貼り替え、
天井画の復元等が施されました。
金箔は通常の厚さの5倍ある「五倍箔」が約20万枚使用され、
その総量は約20kgにもなるそうです。
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屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで、屋頂には銅製鳳凰が置かれています。
鳳凰及び「究竟頂(くっきょうちょう)」の扁額は、火災以前に
取り外されていたため焼失を免れ、鳳凰は京都市の文化財に
指定されています。
現在の鳳凰は2代目で、焼失を免れた鳳凰は別に保存されています。
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初層は「法水院(ほっすいいん」と呼ばれ、寝殿造りで
遊芸や舟遊びができる釣殿でもありました。
金箔は張られず、素木仕上げで白壁造りとなっています。
正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、江戸時代に須弥壇が設けられ、
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左側に義満坐像が
安置されています。
義満は応永元年(1394)に将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居し、
翌年には出家して道義と号しましたが、政治上の実権は
握り続けていました。
この坐像は法服をまとっています。
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第二層は仏堂で「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家造りの仏間風で、
初層と通し柱が使われ、平面は同じ大きさになり、
構造的にも一体化しています。
四方には縁と高欄が巡らされ、外面と高欄には全面に金箔が張られ、
内壁と床は黒漆塗が施されています。
西側に仏間があり、須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)、
須弥壇周囲には四天王像が安置されています。
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第三層は後小松天皇の宸筆による「究竟頂」の扁額が掲げられ、
究極の極楽浄土を表しています。
初層、第二層よりも一回り小さく、禅宗様仏堂風の方3間・1室で、
天井や壁を含め内外ともに金箔が張られ、床は黒漆塗で、
内部には仏舎利が安置されています。
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西側には池に張り出して「漱清(そうせい)」が設置されています。
創建時、足利義満はここで手水を使い、金閣へ上がったと伝わります。
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鏡湖池(きょうこち)は、その名の通り、金閣を池に映し、
金閣を一段と際立たせています。
2,000坪の鏡湖池を中心とした庭園全体28,000坪は、
昭和31年(1956)7月19日に国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
かっては、現在の1.5倍の広さがあったのですが、明治の上地令により
縮小され、また、寺領の多くも失われ、経済的基盤が脆弱となったことから
明治27年(1894)から庭園及び金閣を一般に公開し、
拝観料を徴収して寺の収入源としました。
池にある最大の葦原島には北側と南側及び島の中に三尊石が組まれています。
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その他にも入亀島、出亀島、鶴島などの島々や、畠山石、赤松石、
細川石など、諸大名から寄進された奇岩名石が数多く配されています。

不動堂へ向かいます。
続く