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花山天皇陵から西へ進み、西大路通へ左折して南へ進んだ所に平野神社があり、
神仏霊場の第94番札所となっています。
平安京遷都に伴い、平城京からこの地へ遷され、平安時代中期には伊勢、
賀茂(上賀茂・下鴨)、石清水、松尾に次ぐ名社に数えられていました。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されています。
明治4年(1871)5月に官幣大社に列せられ、
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
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鳥居をくぐると秋なのに桜が咲いていました。
寛和元年(985)4月10日に花山天皇が桜を手植えされたのをはじめ、
各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約50種、約400本の
桜が植えられており、桜の名所となり、
毎年4月10日には桜花祭が行われています。
桜花祭では花山天皇陵へ参拝し、午後からは時代行列が氏子地域を巡行します。
また、江戸時代には「平野の夜桜」として知られるようになり、
現在も続いています。
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参道を進みます。
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石畳の参道の先は左へ曲がっていますが、右側の先に南門があります。
南門は慶安4年(1651)に御所の門が下賜され移築されました。
かっては東の表参道にありましたが、昭和17年(1942)に
南門として現在地に移されました。
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表参道の方へ進みます。
かって、南門があった所には、現在は鳥居が建立され、
「平野皇大神(ひらのすめらのおおかみ)」の扁額が掲げられています。
「平野皇大神」とは現在の平野神社の主祭神
「今木皇大神(いまきのすめおおかみ)」の古称です。
第50代・桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいがさ)の
祖神として、今木神が平城京で祀られていましたが、
古くは平野神と呼ばれていました。
平安京遷都に伴い、平野社も現在地に遷されました。
扁額は西洞院文昭(にしのとういんよしあき)氏の
揮毫(きごう)によるもので、第26代当主・西洞院時慶
(にしのとういん ときよし)は親王家、摂家、寺社、武家などの奏請を
天皇に伝え奏する「伝奏」の職に就き、平野神社の本殿を建立しました。
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鳥居から神門、拝殿、本殿と一直線状に続いていますが、
平成30年(2018)9月4日神戸市に上陸し、近畿地方を横断した
台風21号により拝殿が倒壊しました。
拝殿は慶安3年(1650)に東福門院の寄進により建立され、
京都府の文化財に指定されていました。
「接木(つぎき)の拝殿」と呼ばれ、接木によって組み立てられ、
釘は使用されていません。
内部には公卿・平松時量(ひらまつ ときかず)により寄進された
「三十六歌仙絵」が掲げられていました。
この「三十六歌仙絵」は寛文年間(1661~1672)に
海北友雪(かいほう ゆうせつ)によって描かれ、
書は公卿・近衛基前(このえ もとひさき)によりしたためられました。
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拝殿があった左側に楠の大樹が聳えています。
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楠の大樹の下には「すえひろがね」と呼ばれる餅鉄(べいてつ)の
石が祀られています。
高さ約80cm、重量約200㎏の日本最大級の餅鉄で、成分は60%以上が
酸化鉄で、砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいとされています。
かつては、たたら製鉄などの古代製鉄で使用され、砂鉄と並ぶ重要な
原料として盛んに採集、利用され、日本刀の材料にもなります。
磁鉄鉱なので磁石につき、授与される「授かる守」の中には磁石が入っており、
「すえひろがね」の霊石に引っ付けて霊力を得るとされています。
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拝殿があった右方向に八幡社が祀られています。
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八幡社の左側には、右から鈿女(うずめ)社、蛭子(ひるこ)社、
住吉社、春日社が祀られています。
鈿女社は天鈿女命(あまのうずめのみこと)が祀られ、岩戸隠れで
天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時にストリップを
踊った神で、芸能の守護神とされています。
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拝殿があった正面には幣殿があり、
その奥に二殿一体となった南北二棟の本殿が並んでいます。
平安京に遷された際は、主祭神の今木皇大神(いまきのすめおおかみ)の他、
久度大神(くどのおおかみ)、古開大神(ふるあきのおおかみ)が
祀られていました。
承和3年(836)から承和10年(843)の間に比売大神(ひめのおおかみ)が
合祀され、4柱が祀られるようになりました。
久度神は、国史の延暦2年(783)に「平群郡久度神」との初見があり、
平群郡(へぐりぐん)の久度神社で祀られていた竈の神とするなど諸説あります。
古開神は古関神との記載も見られ、国史での初見は承和3年(836)で、
文献では「久度・古開」と一対として扱われています。
平野社関係記事にしか見えない神であり、渡来神であり久度神と共に久度神社に
祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説などがあります。
比売神は高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、
高野新笠を指すとする説があります。
これらの神々は「皇大御神」「皇御神」とも称され、天元4年(981)に
円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われ、
皇室の守護神として崇敬されるようになりました。
また、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏(たかなしうじ)、
比売神は大江氏、縣社は中原・清原・菅原・秋篠氏の氏族から氏神として
崇敬されるようになりました。
室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
天文5年(1536)には延暦寺が京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き払い、
大火となって下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失し、
平野神社も焼失しました。
その後荒廃し、江戸時代の寛永年間(1624~1644)に第107代・後陽成天皇の
勅許により公卿・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)が本殿を
造営するなど社殿の修造を行いました。
慶安2年(1649、またはその翌年とも...)に第108代・後水尾天皇の
中宮・東福門院により拝殿や玉垣などが建立されました。

本殿は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から
「平野造(ひらのづくり)」と称され、国の重要文化財に指定されています。
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本殿の左側に縣神社があり、天穂日命(あめのほひのみこと)が
祀られています。
天穂日命は天照大御神の第二子とされ、葦原中国平定のために
出雲の大国主命の元に遣わされましたが、大国主命に心服して
地上に住み着き、3年間高天原に戻りませんでした。
現在の社殿は寛永8年(1631)に造営された後、昭和12年(1937)に
大修理が施され、京都府の文化財に指定されています。
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本殿前の右近の橘。
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左近桜は、「衣笠」と呼ばれる平野神社原木の桜です。
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八重紅枝垂桜
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神門を出た北側に桜池があります。
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桜池に架かる橋を渡った先に出世稲荷神社があります。
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出世稲荷神社の右方向に猿田彦神社があります。

神仏霊場・第95番札所の北野天満宮へ向かいます。
続く