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瀬田の唐橋から東へ進んだ所に建部大社(たけべたいしゃ)があります。
建部大社は、社伝では景行天皇46年(116)に日本武尊
(やまとたけるのみこと)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が
神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。
当初は御子の建部稲依別命(たけべいなよりわけのみこと)と共に
住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の
箕作山)の地に祀られ、「建部大神」と称されていました。
その後、天武天皇4年(675)に近江の守護神として、
当時近江国府があった勢多に遷座されました。
国府は大化の改新以降に国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市で、
近江国府は持統天皇8年(694)に国司四等官の存在が確認されています。
平安時代中期の『延喜式』神名帳では名神大社に列せられ、
その後、近江国の一宮として崇敬されました。
現在は神社本庁の別表神社で、神仏霊場の第145番札所となっています。
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一の鳥居
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一の鳥居をくぐり東へ進み、北へと曲がった所に二の鳥居が建っています。
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参道を進むと「幻の千円札」が記された立看板があります。
ヤフオクでは280,000円前後で取引されています。
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手水舎
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神門
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神門をくぐった正面に拝殿があります。
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拝殿の両脇には自然石が組まれた上に狛犬が置かれています。

画像を撮り忘れましたが、拝殿の右前方に三本杉が立っています。
天平勝宝7年(755)に大神神社(おおみわじんじゃ)から
大己貴命(おおなむちのみこと)が勧請され権殿に
祀られるようになりました。
この杉は大己貴命が権殿に祀られた際に一夜にして成長したと
伝わる神木で、建部大社の神紋にもなっています。
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拝殿の左前方には「頼朝公の出世水」と称される御神水が湧き出ています。
平治の乱で捕えられた源頼朝は、14歳にして伊豆への流刑となり、
永暦元年(1160)3月20日の下向の折、建部大社に参篭して
前途を祈願しました。
建久元年(1190)10月3日、奥州を平定した頼朝は鎌倉を発ち、
京都へ向かいますが、11月に再び建部大社を参拝して祈願成就に対し、
幾多の神宝と神領を寄進しました。
頼朝は後白河法皇から権大納言・右近衛大将に任じられましたが、
辞退して鎌倉へと戻りました。
しかし、建久3年(1192)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、
即位した後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられました。
以来、建部大社は出世・開運の神として広く信仰を集めるようになりました。
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幣殿
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本殿
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権殿
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本殿と権殿の屋根
社殿は同じ一間社流造の向かって左側に本殿、
右側に権殿が並んで鎮座しています。
本殿には日本武尊が祀られています。
日本武尊は第12代・景行天皇の皇子で、
本の名を小碓尊(おうすのみこと)と称します。
16歳の時、天皇から朝廷に従わない九州の熊襲建(くまそたける)兄弟の
討伐を命じられて兄弟を討ち、死に臨んだ弟から建(たける)の名を譲られ、
以後日本武尊と呼ばれるようになりました。
西国征伐から戻った日本武尊は、景行天皇40年(110)に天皇から
東国征伐が命じられました。

日本武尊はまず、伊勢神宮で斎王を勤めていた叔母の
倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ね、神剣・天叢雲剣(あめのむらくも
のつるぎ)と袋に入った火打石を授けられました。
その後、東へ進んで尾張国に入り、そこで宮簀媛(みやずひめ)と
出会い、婚約をして駿河の国へ向かいました。
駿河の国では朝廷に従属する気の無い国造(くにのみやつこ)から
野中に誘い出され、四方から火攻めに遭いました。
日本武尊は天叢雲剣で草をなぎ払い、火打石を使って迎え火を点けて
炎を退け、脱出しました。
後にこの地は「焼津」、草をなぎ払った神剣は「草薙の剣
(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれ、後に剣は熱田神宮の
御神体となりました。
駿河の国造を討ち取った日本武尊は、その後浦賀へ入り、
房総へと船で渡ろうとしたのですが、
海が荒れ船を進めることができませんでした。
同行していた后の一人・弟橘媛(おとたちばなひめ)が荒波に身を投じ、
海の神を鎮めました。
荒れていた海は静まり、対岸へと渡りついた日本武尊は、
荒ぶる蝦夷たちをことごとく服従させ、また山や河の荒ぶる神を
平定し、足柄山へ向かいました。
足柄山の頂上に立ち、海を望んで犠牲となった弟橘媛を偲んで
「わが妻と」と呼びかけたことからこの地は「吾妻(あづま)」と
呼ばれるようになりました。

東国を平定して尾張国へ戻ってきた日本武尊は宮簀媛と結ばれ、
しばらくは一緒に暮らしていたのですが、伊吹山に悪い神がいる
と聞き、征伐に向かいました。
草薙の剣を宮簀媛に預けたまま伊吹山を登っていた日本武尊は、
牛ほどの大きい白い猪と出会い、
大きな声で威嚇してやり過ごしました。
しかし、白い猪は山の神そのものであり、威嚇をしたことで怒りを買い、
行く手が阻まれるほどの雹(ひょう)が降り出しました。
雹に打たれて衰弱した日本武尊は、やっとの思いで山を脱出し、
故郷の大和へと向かいました。
養老の地を通るときには「足がたぎたぎとと軋む」と嘆かれ、
後にこの野原は「多芸野(たぎの)」と呼ばれました。
更に大和を目指して歩き続けた日本武尊が、ある村に辿り着いた時、
疲れた足が「三重に曲がり固い餅のようだ」と嘆いたことから
その地は「三重」と呼ばれるようになりました。
そして、能煩野(のぼの=三重県亀山市)で命を落としました。
日本武尊の訃報を聞いて后や御子たちが駆けつけ、陵墓を築きましたが、
その陵墓から白鳥が飛び立ち
河内国の志紀(しき)に留まりました。
後にその地に御陵が造られ、
「白鳥の御陵(みささぎ)」と呼ばれるようになりました。
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菊花石
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さだれ石
本殿の裏側にはさだれ石と特別天然記念物に指定されている
菊花石が並べて置かれています。
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本殿の左側には手前から蔵人頭神社(くろうどのとうじんじゃ)、行事神社、
大政所神社、聖宮神社(ひじりのみやじんじゃ)が並んでいます。
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蔵人頭神社は料理の神である七椈脛命(ななつかはぎのみこと)が
祀られています。
七椈脛命は景行天皇40年(110)に日本武尊の東征にあたり、
膳夫(かしわで=食膳係)に任命されました。
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行事神社は日本武尊の家臣・吉備臣武彦(きび の おみ たけひこ)と
大伴連武日(おおとも の むらじ たけひ)が祀られています。
吉備臣武彦は日本武尊が東征で病に陥った時、
遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされました。
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大政所神社は景行天皇皇后で、日本武尊の母である
播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめ)が祀られています。
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聖宮神社は第12代・景行天皇が祀られています。
景行天皇(けいこうてんのう)は垂仁天皇(すいにんてんのう)の
第三皇子で、垂仁天皇37年(8年)1月1日に21歳で立太子し、
垂仁天皇が崩御された垂仁99年(70)の翌年に即位しました。
景行天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しみ、景行天皇53年(123)に
日本武尊を追慕して東国巡幸を行った後、景行天皇58年(128)に
近江国へ行幸し、その地で3年間滞在して崩御されました。
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本殿の右側には手前から箭取神社 (せんとりじんじゃ)、弓取神社、
若宮神社、藤宮神社が並んでいます。
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箭取神社は日本武尊の家臣である石占横立(いしうら の よこたて)、
尾張田子之稲置(おわり の たごのいなき)、乳近之稲置
(ちちかのいなき)が祀られています。
三名は共に小碓尊(おうすのみこと)の熊襲討伐に随行しました。
因みに三名には地名が含まれているそうで、石占は桑名郡
(三重県桑名市)、田子は愛智郡(名古屋市)、乳近は阿遅加
(あぢか)神社(岐阜県羽島市)付近とされています。
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弓取神社日本武尊の家臣である弟彦公(おとひこのきみ)が祀られています。
弟彦公は弓の名手を探していた小碓尊の求めに応じ、石占横立、
尾張田子之稲置、乳近之稲置を率いて熊襲討伐に随行しました。
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若宮神社は日本武尊の子・建部稲依別命
(たけべいなよりわけ の みこと)が祀られています。
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藤宮神社は日本武尊の后である布多遅比売命
(ふたじひめ の みこと)が祀られています。
布多遅比売命は、古事記では近江の安国造(やすのくにのみやつこ)の
祖先の意富多牟和気(おおたむわけ)の娘とされています。

境内を巡ります。
続く