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建部大社から県道16号線を南東の方向へバイクで30分余り走った所に
紫香楽宮跡(しがらきのみやあと)があります。
当初、国の史跡に指定され、「紫香楽宮阯」の碑が建つ内裏野地区
(だいりのちく)は、かつては宮殿跡と考えられていましたが、
現在は寺院跡とされています。
現在、国の史跡に指定されている紫香楽宮跡は、内裏野地区の他に宮町地区、
新宮神社地区、鍛冶屋敷地区、北黄瀬地区(きたきのせちく)にあります。
宮町地区は宮殿跡を主とする遺跡で、紫香楽宮の中心でしたが、
現在は埋め戻されています。
新宮神社地区は道路跡を主とする遺跡、鍛冶屋敷地区は鋳造所跡を
主とする遺跡、北黄瀬地区は大井戸跡を主とする遺跡ですが、
現在は埋め戻されています。
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参道を進むと案内板が立っています。
第45代・聖武天皇(在位:724~479年)は文武天皇の第一皇子で、
慶雲4年(707)に文武天皇が崩御された後、文武天皇の母である
元明天皇が中継ぎとなり、更に霊亀元年9月2日(715年10月3日)に
文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぎ、
神亀元年2月4日(724年3月3日)に24歳になって即位しました。
天平9年(737)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官の
ほとんどが病死するという惨事に見舞われました。
天平12年(740)には藤原広嗣の乱が起こり、その乱の最中に伊勢国、
美濃国への行幸を始めました。
そして、平城京へは戻らず、その年に都を現在の京都府木津川市加茂地区の
恭仁京(くにきょう)へ遷しました。
天平13年(741)には大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、
宮殿が造られましたが、天平15年(743)の末に造営は中止され、
天皇は紫香楽宮に移りました。
恭仁京から甲賀への道が開かれ、紫香楽宮は天平14年(742)の秋から
宮の造営が行われていました。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に
深く帰依し、天平13年(741)には国分寺建立の詔を発しました。
天皇は紫香楽宮と並行して総国分寺として甲賀寺の造営を行い、
天平15年(743)10月に盧舎那仏を造営することを発願しました。
しかし、一方で神亀3年(726)に聖武天皇が難波宮(なにわのみや)に
造営した離宮に、天平16年(744)には遷都が行われています。
更に、天平17年(745)1月には現在の宮町地区の甲賀宮が都とされましたが、
4月には山火事が頻発し、更に地震が続き、
5月には再び平城京に都が戻されました。
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案内板から参道は北へと曲がっています。
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石段を上った所に中門跡があります。
甲賀寺は東大寺式の伽藍配置とされていますが、
その面積は3割弱と大幅に狭くなっています。
中門の南側には南大門があるはずですが、現在ではまだ特定されていません。
中門は正面三間、奥行き二間の二重の楼門であった
だろうと考えられています。
中門の左右には回廊があり、金堂をとりまいて、東側の鐘楼、
西側の経楼へと結ばれていたと推定されています。
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中門跡の西側には紫香楽宮の社殿があります。
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中門跡の先に金堂跡があります。
記録では天平16年(744)の11月に盧舎那仏の体骨柱が建てられたと
記されていますが、現在地の金堂跡では大仏が安置される規模とは
考えられず、甲賀寺とするには疑問が残されています。
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礎石図
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伽藍配置図
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金堂跡の北側に講堂跡があります。
講堂は正面七間、奥行四間の金堂と同規模の建物と見られ、
中央には仏像を安置するための内陣跡も見られます。
北側の中央には尾廊があり、僧坊へと続いていました。
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講堂跡の北側にコの字型の僧坊跡があります。
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金堂跡・講堂跡の西側に経楼跡があります。
経楼は三間四面の建物で、東側の鐘楼と同規模だったと推定されています。
経典などを納めるこの時代では重要な建物でしたが、
現在発見されている例が少なく、貴重な遺構とされています。

現地の案内板には、「この遺跡は紫香楽宮造営の一環として建てられた
寺院の遺跡であって、後に甲賀宮国分寺となったと推定される甲可寺の
遺構とみられ、東大寺に先立つ寺院の遺跡として貴重である。」と
記されています。

神仏霊場・第134番札所の田村神社へ向かいます。
続く