堤防への階段の下に谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」の
説明板が立っています。
昭和7年に発表されたこの作品の主人公は、水無瀬神宮を訪れ、
水無瀬の港から渡船で中州に渡り、中秋の名月を賞でながら一人日本酒を
ラッパ飲みする。というストーリーで始まっています。
今年の中秋の名月は、9月15日(木)です。
背割堤の先端まで、ビールでも持って行ってみようかと考えています。
今年の中秋の名月は、9月15日(木)です。
背割堤の先端まで、ビールでも持って行ってみようかと考えています。
堤防を上がると、河川敷はグラウンドとして整備されていました。
下流方向に少し進んだ所、この通路の先で宇治川・桂川と
木津川が合流しています。
堤防を歩いたのですが、大失敗でした。
強い日光を遮ってくれる物は無く、堤防の道は舗装されていて、
強い日光を遮ってくれる物は無く、堤防の道は舗装されていて、
その照り返しに体力を奪われ、なんとか高浜砲台跡にたどり着きました。
高浜砲台は、元は淀川河川敷の外島に設置されたのですが、
淀川改修のために壊され、この地に石碑が建てられたそうです。
幕府は、攘夷派が淀川からの進入を防ぐため、慶応2年(1866)に高浜と
幕府は、攘夷派が淀川からの進入を防ぐため、慶応2年(1866)に高浜と
対岸の楠葉に砲台(台場)を建設しました。
砲台の規模は、周囲約180m、高さ約2.4mに及ぶ堅固なものとされていました。
慶応4年(1868)元日、徳川慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて
砲台の規模は、周囲約180m、高さ約2.4mに及ぶ堅固なものとされていました。
慶応4年(1868)元日、徳川慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて
「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした
出兵を開始しました。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、
会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進行しました。
1月3日、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽と伏見で衝突し、
1月3日、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽と伏見で衝突し、
「鳥羽・伏見の戦い」の戦端が開かれました。
鳥羽街道では、旧幕府軍の優勢な兵力にもかかわらず新政府軍に前進を阻まれ、
鳥羽街道では、旧幕府軍の優勢な兵力にもかかわらず新政府軍に前進を阻まれ、
伏見の戦いでは旧幕府軍は敗戦を喫し八幡・橋本・楠葉に逃れ、
橋本陣屋と樟葉台場に兵力・武器を集め最後の防衛線を張りました。
当時、幕命で高浜砲台は津藩が守備に就いていたのですが、
当時、幕命で高浜砲台は津藩が守備に就いていたのですが、
勅使四条隆平(しじょう たかとし)に説得され官軍へ帰順しました。
旧幕府軍は、思いもかけない対岸からの砲撃に戦意を失って総崩れとなり、
旧幕府軍は、思いもかけない対岸からの砲撃に戦意を失って総崩れとなり、
淀川を下って大坂へと逃れることになりました。
島本町立歴史文化資料館にはその当時、旧広瀬村の民家に着弾した
島本町立歴史文化資料館にはその当時、旧広瀬村の民家に着弾した
砲弾と柱の傷が展示されています。
高浜砲台跡碑の背後には、薬師堂があります。
薬師如来像が安置されていますが厨子の中に納められていて、
薬師如来像が安置されていますが厨子の中に納められていて、
外からは見ることができません。
江戸時代、この地には妙法寺があり、淀川洪水の際に川上より
江戸時代、この地には妙法寺があり、淀川洪水の際に川上より
武内神社付近に漂着した薬師如来像が安置されました。
妙法寺はその後、度々火災や洪水の被害を受け、廃寺となりました。
現在の薬師堂は、昭和39年に建立され、常春寺が管理をしています。
妙法寺はその後、度々火災や洪水の被害を受け、廃寺となりました。
現在の薬師堂は、昭和39年に建立され、常春寺が管理をしています。
薬師堂から高浜公会堂を左折した先に、フェンスに囲まれた畑の隅に
「常春寺(じょうしゅんじ)」への道標が立っています。
フェンス沿いに坂道を下った所に常春寺があります。
民家と同じような建物ですが、半鐘が下がっています。
常春寺は、臨済宗・大徳寺派の寺院で、山号を長養山と称します。
江戸時代の慶長16年(1611)に創建され、明治41年(1908)に再興されました。
常春寺は、臨済宗・大徳寺派の寺院で、山号を長養山と称します。
江戸時代の慶長16年(1611)に創建され、明治41年(1908)に再興されました。
道標まで戻り、進んだ先に「右・八幡道 左・京道」と刻まれた
道標が立っています。
進行方向からは左折ですが八幡道の方へ進み、堤防への石段を上ります。
以前は、ここに高浜渡しや、上流には広瀬渡し、更に上流には山崎渡しなどが、
対岸の樟葉や橋本との交通や流通を支えていました。
又、大阪と京都を繋ぐ重要な水上路でもあったため、
又、大阪と京都を繋ぐ重要な水上路でもあったため、
この辺りの港は中継地として活用されたのでしょう。
草が茂る河川敷の広い範囲が、広瀬南遺跡で須恵器の大甕(かめ)をはじめ、
草が茂る河川敷の広い範囲が、広瀬南遺跡で須恵器の大甕(かめ)をはじめ、
弥生時代から近世にわたる各種の土器が出土しています。
街道に戻ると「武内神社」への道標があり、示す方向に進みます。
S字状に曲がりT字路の角の民家に清明社があります。
安倍晴明が祀られているとの事ですが、字は異なっています。
由来は、晴明が御所へ行く途中、当地に立ち寄り、
ここの井戸水で渇きをいやしたと伝わります。
その由縁でここに社が置かれたものと推察されます。
その由縁でここに社が置かれたものと推察されます。
清明社から田圃の中を武内神社(たけのうちじんじゃ)へと向かいます。
武内神社は春日神社とも言われ、離宮八幡宮の七十有余の摂社の一でした。
武内神社は春日神社とも言われ、離宮八幡宮の七十有余の摂社の一でした。
元は淀川河川敷に鎮座していたのですが、明治時代の淀川改修工事に伴い
この地に遷され、昭和42年、拝殿及び本殿覆屋が築造されました。
本殿は、コンクリート造りの覆屋の中に納められ、
右に春日大明神、左に武内宿祢を祀られています。
仕えていたことから、全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに
「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られます。
また武内宿禰は忠臣とされることから、
また武内宿禰は忠臣とされることから、
戦前の日本銀行券の肖像として採用されていました。
拝殿に向かって右側には「南無堅牢地神碑(なむけんろうじしんひ-右)」、
王位を禅譲され、中国の史書に記された最古の中央集権国家「夏(か)」を
創始した人物であり、名を「文命(ぶんめい)」と云いました。
黄河の治水に成功し、聖王として称えられ、後に 黄河や長江では治水神として
黄河の治水に成功し、聖王として称えられ、後に 黄河や長江では治水神として
強い信仰を受ける様になりました。
やがてその信仰は、東アジア全域へと拡がり、日本では鎌倉時代の
やがてその信仰は、東アジア全域へと拡がり、日本では鎌倉時代の
安貞2年(1228)に京都鴨川の氾濫時、旧五条大橋(現在の松原橋近く)に初めて
「夏禹廟」がつくられた、という記録があるそうです。
左側にも石碑が建っているのですが、判読ができません。
島本町立歴史文化資料館へ向かいます。
続く
続く