カテゴリ: 島本町~大山崎町

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堤防への階段の下に谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」
説明板が立っています。
昭和7年に発表されたこの作品の主人公は、水無瀬神宮を訪れ、
水無瀬の港から渡船で中州に渡り、中秋の名月を賞でながら一人日本酒を
ラッパ飲みする。というストーリーで始まっています。
今年の中秋の名月は、9月15日(木)です。
背割堤の先端まで、ビールでも持って行ってみようかと考えています。
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堤防を上がると、河川敷はグラウンドとして整備されていました。
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下流方向に少し進んだ所、この通路の先で宇治川・桂川と
木津川が合流しています。
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堤防を歩いたのですが、大失敗でした。
強い日光を遮ってくれる物は無く、堤防の道は舗装されていて、
その照り返しに体力を奪われ、なんとか高浜砲台跡にたどり着きました。

高浜砲台は、元は淀川河川敷の外島に設置されたのですが、
淀川改修のために壊され、この地に石碑が建てられたそうです。
幕府は、攘夷派が淀川からの進入を防ぐため、慶応2年(1866)に高浜と
対岸の楠葉に砲台(台場)を建設しました。
砲台の規模は、周囲約180m、高さ約2.4mに及ぶ堅固なものとされていました。
慶応4年(1868)元日、徳川慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて
「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした
出兵を開始しました。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、
会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進行しました。
1月3日、旧幕府軍と新政府軍が鳥羽と伏見で衝突し、
鳥羽・伏見の戦い」の戦端が開かれました。
鳥羽街道では、旧幕府軍の優勢な兵力にもかかわらず新政府軍に前進を阻まれ、
伏見の戦いでは旧幕府軍は敗戦を喫し八幡・橋本・楠葉に逃れ、
橋本陣屋と樟葉台場に兵力・武器を集め最後の防衛線を張りました。
当時、幕命で高浜砲台は津藩が守備に就いていたのですが、
勅使四条隆平(しじょう たかとし)に説得され官軍へ帰順しました。
旧幕府軍は、思いもかけない対岸からの砲撃に戦意を失って総崩れとなり、
淀川を下って大坂へと逃れることになりました。
島本町立歴史文化資料館にはその当時、旧広瀬村の民家に着弾した
砲弾と柱の傷が展示されています。
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高浜砲台跡碑の背後には、薬師堂があります。
薬師如来像が安置されていますが厨子の中に納められていて、
外からは見ることができません。
江戸時代、この地には妙法寺があり、淀川洪水の際に川上より
武内神社付近に漂着した薬師如来像が安置されました。
妙法寺はその後、度々火災や洪水の被害を受け、廃寺となりました。
現在の薬師堂は、昭和39年に建立され、常春寺が管理をしています。
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薬師堂から高浜公会堂を左折した先に、フェンスに囲まれた畑の隅に
「常春寺(じょうしゅんじ)」への道標が立っています。
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フェンス沿いに坂道を下った所に常春寺があります。
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民家と同じような建物ですが、半鐘が下がっています。
常春寺は、臨済宗・大徳寺派の寺院で、山号を長養山と称します。
江戸時代の慶長16年(1611)に創建され、明治41年(1908)に再興されました。
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道標まで戻り、進んだ先に「右・八幡道 左・京道」と刻まれた
道標が立っています。
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進行方向からは左折ですが八幡道の方へ進み、堤防への石段を上ります。
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以前は、ここに高浜渡しや、上流には広瀬渡し、更に上流には山崎渡しなどが、
対岸の樟葉や橋本との交通や流通を支えていました。
又、大阪と京都を繋ぐ重要な水上路でもあったため、
この辺りの港は中継地として活用されたのでしょう。
草が茂る河川敷の広い範囲が、広瀬南遺跡で須恵器の大甕(かめ)をはじめ、
弥生時代から近世にわたる各種の土器が出土しています。
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街道に戻ると「武内神社」への道標があり、示す方向に進みます。
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S字状に曲がりT字路の角の民家に清明社があります。
安倍晴明が祀られているとの事ですが、字は異なっています。
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由来は、晴明が御所へ行く途中、当地に立ち寄り、
ここの井戸水で渇きをいやしたと伝わります。
その由縁でここに社が置かれたものと推察されます。
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清明社から田圃の中を武内神社(たけのうちじんじゃ)へと向かいます。
武内神社は春日神社とも言われ、離宮八幡宮の七十有余の摂社の一でした。
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元は淀川河川敷に鎮座していたのですが、明治時代の淀川改修工事に伴い
この地に遷され、昭和42年、拝殿及び本殿覆屋が築造されました。
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本殿は、コンクリート造りの覆屋の中に納められ、
右に春日大明神、左に武内宿祢を祀られています。
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、八幡神と同一視される応神天皇
仕えていたことから、全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに
「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られます。
また武内宿禰は忠臣とされることから、
戦前の日本銀行券の肖像として採用されていました。
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拝殿に向かって右側には「南無堅牢地神碑(なむけんろうじしんひ-右)」、
「夏大禹聖王碑(かだいうせいおうひ-左)」の石碑が建っています。
堅牢地神は大地を堅固に守る神です。
禹王(うおう)は、今から約4千年前、紀元前2070年頃、舜(しゅん)から
王位を禅譲され、中国の史書に記された最古の中央集権国家「夏(か)」を
創始した人物であり、名を「文命(ぶんめい)」と云いました。
黄河の治水に成功し、聖王として称えられ、後に 黄河や長江では治水神として
強い信仰を受ける様になりました。
やがてその信仰は、東アジア全域へと拡がり、日本では鎌倉時代の
安貞2年(1228)に京都鴨川の氾濫時、旧五条大橋(現在の松原橋近く)に初めて
「夏禹廟」がつくられた、という記録があるそうです。
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左側にも石碑が建っているのですが、判読ができません。

島本町立歴史文化資料館へ向かいます。
続く



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JR山崎駅から西国街道を経て、府道734線へと右折して、
JRの高架をくぐって二手に分かれている名神高速道路の間の上り坂を登ります。
登りきった所に「天王山断層露頭」の案内板が立っています。
断層露頭とは、断層が地表に表れた所のことで、昭和30年代に建設された
名神高速道路の工事で表れたと解説されています。
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現地には、当時の写真は残されていますが、下を走る高速道路の安全上、
断層面を可視化できる保存はされていないようです。
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案内板から少し下った所に水無瀬の滝への登り口があります。
標識が立っていて、滝まで70mの距離です。
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滝の傍らには、「八大竜王」、「白姫竜王」、「玉竜大神」が祀られています。
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滝の脇にも石仏が置かれています。
古来から和歌にも詠まれるなど情緒ある滝であった一方で、
下流の人々が洪水に恐れていたことが察せられます。
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昨日の雨で水量が増えているのでしょうか?
約20mの落差を勢いよく水が流れ、高速道路の騒音も消されています。
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先ほどの標識まで戻り、東大寺春日神社へ向かいます。
約100mの坂を登った行き止まりのように見える所にポツンと
春日神社があります。
元々この地は、奈良・東大寺の寺領で、今も東大寺の地名が残されています。
奈良繋がりだったのか?藤原氏の影響があったのか?
この地に春日大神が勧請されました。
旧東大寺村の五穀を守護する産土神として創祀されたと伝わりますが、
勧請された後、神官が不在となり、社殿が荒廃して移転を繰り返してきました。
昭和38年に水無瀬の滝の近くに遷されましたが、平成4年に名神高速道路の
拡張工事に抵触し再度の移転となって、高速道横の現在地に遷されました。
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新しく春日造りの社殿を造営、寄進による春日灯篭、鳥居、手水舎、
瀧谷庵と名付けられた休憩所が新設されました。
春日神社の変遷を思い、横を次々と通り過ぎる車の騒音と
夏草が生い茂る様を見ると、なぜか哀れさを感じさせます。
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西国街道まで戻り、水無瀬神宮へと向かいます。
水無瀬神宮は、後鳥羽天皇がこの地に造営した離宮である水無瀬殿が始まりです。
後鳥羽天皇は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して、上皇として院政を敷き、
承久3年(1221)に承久の乱を起こしました。
上皇は承久の乱で破れ、隠岐に流されそこで崩御しました。
仁治元年(1240)、上皇の遺勅に基づき、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に
御影堂を建立し、上皇を祀りました。
明応3年(1494)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、
水無瀨宮の神号を奉じました。
明治時代になって、それまで仏式で祀られたいたものを神式に改め、
水無瀨宮と改称し、土御門天皇順徳天皇の神霊を
配流地から迎えて合祀されました。
明治6年(1873)に官幣中社に、昭和14年(1939)に官幣大社に列格し、
水無瀬神宮と改称されました。
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神門は、桃山時代に作られた薬医門造で、大阪府の重要文化財に指定されています。
また、神門と築地塀は国の登録文化財です。
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この門の向かって右側には石川五右衛門の手形が残されています。
五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていたが、
神威により門内へも入れず、やむなく立ち去ったときに残した手形とされています。
金網で囲われ、手形と判別するのは困難なように思われます。
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門をくぐると右側に神庫があり、国の登録文化財です。
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神庫の横には、稲荷神社・星阪神社・柿本神社・春日神社が並んでいます。
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拝殿及び幣殿は、国の登録文化財で文化財データベースによると
昭和4年に建立または改築されたようです。
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本殿は、京都御所の旧内侍所の旧材を用いて江戸時代の
寛永年間(1624~1645)に移築されたもので、国の登録文化財です。
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拝殿の隣に建つ客殿は、桃山末期に豊臣秀吉が家臣の福島正則に命じて造営し、
寄進したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
拝殿と客殿の間、奥の方に茶室(燈心亭) があるのですが、
屋根の一部しか見えません。
見学には5名以上の予約が必要です。
後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院で、
国の重要文化財に指定されています。
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手水舎は、大正期のもので国の登録文化財です。
「離宮の水」は、大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選ばれ、
現在、水は井戸から汲み上げられて奥の方に蛇口がついていて、
多くの方々が汲みに来られています。

国道171号線を横切り淀川の堤防へと向かいます。
続く


イメージ 1阪急京都線「長岡天神」駅から阪急バス「 第二大山崎小学校前」で下車した所に
石倉神社があります。
但し、注意しないと見過ごします。
小高い丘というより土を盛って高くした上に、小さな社が祀られています。
石倉神社は、小倉神社の末社で、小倉神社にお参りする前に、お祓いと禊を授ける社で、投石信仰がありました。
石倉神社の小さな社に、小石を投げてから小倉神社にお参りするという風習は
イメージ 2明治の中頃まで続いていました。

かって、石には神さまのほか、人の魂もやどるとされていました。
石は“おはらい”と“みそぎ”を受ける“人の身がわり”だったのです。

石倉神社は、いつも寝ている寝坊な神様が祀られているそうです。
だから社に石を投げて、神様を起こさないと願い事が聞いてもらえないとの伝承
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石倉神社の社は、10年くらい前に修理、再建されたそうですが、前の土砂が僅かに削られているように見受けられます。

石倉神社の背後は、その際まで宅地のために削られています。




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石倉神社の前を進むと、小倉神社の石柱が建っています。
















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江戸時代の元禄年間(1688~1703)に建立された一の鳥居です。








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神額「正一位小倉大明神」は、小野道風の筆と伝わります。
















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二の鳥居の手前に駐車場があります。
駐車場の横では、マンションの建築が行われています。







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奥の方も無残にも竹薮が切り開かれ宅地にされつつあります。
小倉神社の神域が破壊されています。







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駐車場の横にあるコンクリート造りの
神輿庫には、江戸時代の作とされる神輿2基が納められています。
5月3日の春季例大祭で、神輿が巡幸されるそうです。





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神輿庫の横に龍王神社が祀られています。
龍王神社は、かって、天王山の山頂近くにある竜神池の畔に祀られていたのですが、江戸末期にここに遷されました。













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龍王神社の隣にある稲荷社。









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二の鳥居も元禄年間に建立されました。

















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二の鳥居をくぐると、若宮神社があります。
















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若宮神社の隣に天満宮があります。

















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天満宮、神使の牛。









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鳥居をくぐった左側には手水舎があります。








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手水舎の斜め奥には、境内に背を向けて熊野神社が祀られています。
















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境内の中央には噴水があります。









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噴水の奥には、方除交通安全のやちまた宮が祀られています。
















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やちまた宮の横、天王山への登山道を挟んで短い階段の先に、割拝殿があります。







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割拝殿









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割拝殿の中、右側に「神幸祭板絵」が掛かっています。







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左側に掛かる「奉納相撲板絵」の額には、文政と書かれていますので、
江戸時代のものでしょうか?
雨はしのげても風にはさらされる条件下でも色彩が残されています。






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割拝殿の横に滝不動が祀られています。

















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割拝殿の背後に立つ杉と樅の御神木は、樹齢500~600年とみられています。








イメージ 31割拝殿の先に拝殿があります。
拝殿には舞台があり、神楽が奉納されたのでしょうか?

江戸時代には、境内に能舞台があり、祭礼には小倉能と呼ばれた能が演じられいたそうです。




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拝殿の先、右奥には三社宮があります。
右から八幡宮、天照皇大神宮、若宮社が祀られています。







イメージ 33拝殿の先、左奥には亀の手水があります。
手前の亀さんは休憩中でした。








イメージ 26小倉神社は、乙訓地方(おとくにちほう)で最も古い神社の一つとされています。
奈良時代の養老2年(718)に創建され、
平安遷都の際は御所の鬼門除けとして祈願されました。
嘉祥3年(850)には、神階最高位である「正一位小倉大明神」と号しました。
山崎合戦の際は、秀吉が家臣を遣わし、戦勝を祈願しました。

イメージ 27江戸時代には、徳川幕府から寄進を受け、禁門の変では幕府軍の戦勝祈願が行われました。
本殿は江戸時代の文化8年(1811)、
明治30年(1897)、昭和10年(1935)に
改修、修築が行われました。









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本殿の裏に「小倉神社磬座(いわくら)、地磁波発生の処」と記された丸い石碑があります。
その横に建つ説明文で、地磁波は、
「地球の持っている磁気が特定の場所で強く認められ、機器測定によると此の周辺の空間には磁力波が流れ出しています。」と記されています。

磬座は、「古来、自然崇拝の中心として、山を崇高な神の宿るところとの考えから、御神体の中心とされた岩盤の多い場所」とされています。
最強のパワースポットだと思います。
現代人よりも、五感が敏感だったであろう古代人は、このような場所に霊感を

イメージ 29得て社寺を創建したのでしょう。


















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本殿を3周して、石段を下り、横を流れる谷川のせせらぎに引かれて、川を覗いてみました。
小さな滝がありました。














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谷川に架かる橋を渡ると天王山への登山道です。
JR大山崎駅からの、手軽な縦走コースです。






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谷川沿いに下ると、十二支の石像が並んでいます。

明治の初め頃まで、小倉神社の神輿が
渡御したと伝わる走田神社へ向かいます。
続く





イメージ 1西国街道を京都方向に進むと、東の黒門跡がありますが、現在は道路の拡幅工事中で石敢当(いしがんとう、せっかんとう、せきがんとう)は、移動されています。
昔の大山崎集落は、離宮八幡宮の神領で、
15世紀にその集落の東と西の端にそれぞれ黒門が設けられました。
夜になると門は閉められ、集落を守っていました。
光秀軍は大山崎の東黒門の出口の先で秀吉軍を待ち受け、山崎合戦が始まったとの記録があります。
魔よけの石とされる石敢当は、悪鬼、邪気は曲がり角を曲がれず石敢当に当たって死ぬといわれています。
石敢当は、京都府には3基しか残されていません。
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東の黒門跡と思われる所で左折し、JRと阪急の線路の下をくぐった先がT字路になっていますので、右折して北上します。
JRの普通電車が通過しています。
大山崎町・町あるきマップによりますと天王山山麓の道です。









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御茶屋池・円明教寺の道標が建っている所で山手の方に左折します。
















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坂道を上って行くと、突き当たりに
円明教寺の山門があります。
山門は、二階が鐘楼となった重層構造ですが、梵鐘は第二次世界大戦時に、
金属の戦時供出されたため、
今は有りません。
円明教寺は、平安時代後期に天台宗の
寛済法師が円明寺を建立したと伝わります。

イメージ 5その後、京都政界の実力者であった
西園寺公経(きんつね)に譲られ、
別荘(円明寺山荘)の庭園の一部として整備されたのが「御茶屋池」と言われています。
円明寺は、鎌倉中期には西園寺公経の
娘婿である九条道家に譲られ、
池庭が更に整備され、道家の息子で
一条家始祖となる実経(さねつね)に譲られました。

イメージ 6室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477)では、兵火を受け衰微してゆき、
江戸時代初期には薬師堂と呼ばれ、
堂のみを残して無住となりました。
円明教寺と呼ばれるようになったのは
近代になってからです。
本尊は、平安時代の薬師如来像で脇侍に日光・月光両菩薩像が祀られています。
平安時代の毘沙門天立像と鎌倉時代の
地蔵菩薩立像も安置されています。

イメージ 7御茶屋池は潅漑用として、水利組合によって管理され、往時を偲ぶことはできません。
唯一、綺麗な錦鯉が2匹、優雅に泳いでいるのが見え、救われたように感じました。
遠くに比叡山から東山連峰が一望できます。
昔は周囲に背の高い民家も無かったでしょうから、舟を浮かべて景色を楽しみ、優雅な時を過ごしていたのでしょう。
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上ってきた坂道を下り、天王山山麓の道を通り過ぎ、そのまま下って行くと、
JRの線路の下をくぐる高さ140cmのトンネルがあります。
正式名称は円妙寺橋梁(えんみょうじきょうりょう)といい、明治8年に完成した、土木学会の「日本の近代土木遺産」でBランクに指定されている貴重な土木遺産です。
大山崎町・町あるきマップでは、
「ねじりマンポ」と紹介されています。
マンポ、聞き慣れない言葉ですが、
鉄道の橋という意味だそうです。
田畑や水路、通路があった所に鉄道が敷設されたため、分断された水路・通路を補うために設置されました。
円明寺から下ってくると、石段を降りてトンネルをくぐります。
イメージ 9ねじりマンポをかがみながら通り抜けました。
次の画像のように、線路に対し通路は斜めに交差しているのですが、
レンガは直角に交差しているように積まれています。
道路側から見ると、アーチ部分のレンガがねじったように見えることから、
「ねじりマンポ」と呼ばれています。










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トンネルの先に橋が架かっています。
橋の名前は「まつたばし」といい、橋の袂には「子供を守る河原の如来さん」が祀られています。
この如来さんは、江戸時代の初め、
難産で母子共に命の危険にさらされていた時、家族や村人が「河原の大日如来」にお百度参りを行いました。
お参りを続けて3日後、無事に赤ちゃんは生まれたのですが、如来さんが消えていました。
昭和の初め、小泉川の改修工事で川底から如来さんが見つかり、橋の袂に祀られるようになったそうです。




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川の両岸には、満開の菜の花がそよ風に揺れています。
堤防には、菜の花の小径が続いています。






イメージ 13下を流れる川が小泉川で、小泉川を挟んで羽柴軍3万6千、明智軍1万5千が対峙し、天正10年(1582)6月13日午後4時30分に合戦の火蓋が切って落とされました。






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橋を渡った所にある公園に、
「山崎合戦古戦場」の碑が建てられています。















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この公園は奥に見える名神高速道路と
立体交差している京都縦貫道の下に造られました。
「天王山夢ほたる公園」という名称で、
付近にヒメボタルの生息地があります。





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公園から手前に見えるのが、大山崎中学校で、左奥に見えるのが、サントリービー工場です。
その工場の裏辺りに明智光秀の本陣が置かれました。
合戦は、多勢に無勢、3時間余りで決着し、本陣から、光秀は勝竜寺城へと逃れ、夜陰にまぎれて妻子が待つ坂本城へ落ち延びようとしたのですが道中、竹槍で刺されて自刃しました。


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公園内にある陸橋を大山崎中学校の方へ渡り、その先で左に曲がります。
保育園を過ぎた所で右に曲がるとT字路に突き当たり、そこに白山神社があります。





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白山大権現の扁額が掛かっています。
屋根が破れているようです。








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社は傾いています。
熊本地震ほどでなくても、やや強い地震で倒れそうに見えます。















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内部も荒れています。

















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白山神社を左折し、突き当りが明智光秀の本陣が置かれた跡です。
光秀の本陣は、境野一号墳と呼ばれる、四世紀後半、古墳時代前期後半に造営された前方後円墳上に築かれたと考えられています。
発掘調査で、空堀跡や火縄銃の鉄砲玉が出土しました。
古墳のある場所は、標高25.2mあり周囲より高くなっています。
今は住宅が立ち並んでいますが、当時は天王山や西国街道が見渡せたと想像されています。






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今は、古墳の周りはフェンスで囲われ立ち入ることはできません。
隙間から覗いて見ても、前方後円墳のような形状は見られず、空き地が広がっているだけでした。
サントリービールの工場を廻り込むように進むと、阪急バスの久貝バス停に出られます。
今回行けなかった小倉神社は、改めて訪れました。
続く


イメージ 1観音寺-本堂
観音寺は、山号を妙音山と称し、通称「山崎聖天」と呼ばれています。
寺伝によると、平安時代の昌泰2年(899)に寛平法皇(宇多天皇)の御願寺として創建されたと伝えられています。
「妙音山」という山号は、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」イメージ 2と彫ってあったことに由来しています。(剏建地?)
創建されてから後は、徐々に衰退し、江戸時代初期になって摂津勝尾寺の僧・木食以空(もくじきいくう)によって再興されました。
木食とは、肉類,五穀を食べず、木の実や草などを食料として修行することで、その修行を続ける高僧が木食上人です。
木食以空は、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊として中興開山しました。
その後、歓喜天(かんぎてん)を鎮守として祀り、住友家、鴻池家、三井家をはじめ、広く商人から信仰されるようになり、発展しました。
画像は歓喜天を祀る聖天堂
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しかし、禁門の変に巻き込まれ、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失しました。
明治時代に入り観音寺は順次復興され、現在ある建物は西観音寺の本堂や、
聖天堂、鐘楼などを移して再建されたものです。




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梵鐘は桂昌院によって奉納され、
四方に梵字が刻まれています。













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光明殿は、仁和寺より移築されたもので、大正13年までは浴油堂(よくゆどう)と称され、浴油供が修されていました。
後水尾、明正、霊元、中御門天皇の位牌と東山天皇の坐像が祀られています。




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開基薬師堂は、山号由来の
開基薬師如来像が祀られています。
















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境内にある銅製の大塔楼は、江戸時代に住友家の寄進により建立されました。
阪神淡路大震災で一部損傷しましたが、住友家と住友グループによって修復されました。













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土蔵は、禁門の変で唯一焼け残りました。








4月10日、観音寺では「花まつり」が行われました。
当日は、少女による神楽や日本舞踊、そして壬生六斎念仏講中による壬生六斎が奉納されました。
壬生六斎は、平安時代に空也上人(くうやしょうにん)が念仏を広めるために行った踊念仏が始まりとされています。
「六斎」というのも元々は仏教用語で、毎月8日、14日、15日、23日、29日、末日は特に厳しく念仏のお勤めをしなければならないと
いう、「六斎日(ろくさいにち)」の考え方からきているとされます。
六斎念仏は、継承団体によって受け継がれています。
壬生六斎念仏講中は、かつて「壬生村(みぶむら)」と呼ばれ、現、京都市中京区壬生にある継承団体です。
幕末には新撰組が屯所を置いたことでも知られています。
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庫裏の前から急な石段を下ると仁王門に出ます。








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仁王門は昭和になってから建築されたそうです。








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口を結んだ吽形(うんぎょう)像

















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開口の阿形(あぎょう)像























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仁王門から右方向に進むと車道に出て、こちらにも入口があり、ここを上ると薬師堂の横に出られます。















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入口の先には稲荷大明神の社があります。








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稲荷社の先で、天王山への登山道と合流し、ここを下った右側に瓦窯跡があります。







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大山崎瓦窯跡は、平成16年の発掘調査で発見され、国の史跡に指定されました。
平安京造営やその後の修理の際に瓦を
供給していた国営の瓦窯だったと推定されています。
ここから阪急・JRの線路を挟んで下った所に山崎津跡があり、そこから舟で
平安京まで瓦が運ばれたのでしょう。


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今は石碑が建つだけで、何も無い空き地ですが、昔は上図ような光景が広がっていたのでしょう。















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瓦窯跡に隣接して桜の広場公園があります。








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桜の広場公園の桜

















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公園の先に観音寺二の鳥居があります。
聖天堂は天皇の命令により神社造で、
お寺でありながら鳥居があります。







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二の鳥居には聖天宮の扁額が掛かっています。
















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石段を下り、阪急とJRの線路をくぐると一の鳥居があります。










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「観音寺」の扁額が掛かっています。

















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西国街道を横切って突き当りを右に曲がるとマンションが見えますが、その玄関に山崎津跡の説明板が立てられています。
瓦窯跡の真下くらいの位置に当たり、
昭和63年にマンション建設に先立つ発掘調査で、船着場の遺構が見つかりました。
山崎津は延暦3年(784)、長岡京造営に伴い設置されたと考えられています。
平安京造営の際は、先ほどの国営の瓦窯が建設され、この港から舟出しされました。

嵯峨天皇の河陽宮(かやのみや)のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺、橋の上流には山崎津(港)がありました。
嵯峨天皇は平安初期の52代天皇で在位期間は809~823年です。
紀貫之は、承平5年(935)に土佐守の任を終え、舟で都への帰路、山崎津に着いたときのことが「土佐日記」に記されています。
「やまざきのほしみゅ。うれしきことかぎりなし。ここに、相応寺のほとりに、しばしふねをとどめて、とかくさだむることあり。」
山崎橋には触れられていません。
もう、この頃には橋は流されて無かったのかもしれません。
西国街道まで戻り、円明教寺へ向かいます。
続く





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