カテゴリ: 京都市左京区・南部

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本殿との並びの左側に三井神社があります。
三井神社も本宮と同じように周囲を玉垣で囲われ、正面に棟門があり、
門を挟んで東西の廊下があります。
『風土記』山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社
(たてくらのさとみつみのやしろ)」、『延喜式』には「三井ノ神社」と
記されています。
奈良時代から平安時代にかけて、下鴨神社が位置する辺り一帯は
蓼倉郷と呼ばれていました。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とその妻、
伊可古夜日売命(いかこやひめのみこと)とその子、
玉依媛命(たまよりひめのみこと)の三神が祀られていることから
三身社と称されました。
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現代の社殿は江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
西側に並ぶ末社の配置も平安時代の社頭絵図から変化なく鎮座し、
神社内のすべてが国の重要文化財に指定されています。

画像はありませんが、三井神社の左側に大炊殿(おおいどの)があり、
神饌のための御料を煮炊き、調理する場所でした。
文明2年(1470)、応仁・文明の乱で焼失する以前には、魚介鳥類を調理する
贄殿(にえどの)もありましたが、現在は大炊殿のみが再建されています。
井戸の「御井(みい)」があり、神饌の御水や若水神事などの際に用いられ、
国の重要文化財に指定されています。

大炊殿の左側に御車舎があり、葵祭の牛車が置かれています。
敷地内には「葵の庭」が再興されています。
かって庭には、下鴨神社の社紋である双葉葵が自生していました。
徳川家の家紋三つ葉葵は、この双葉葵に一葉加えて回転させたものです。

大炊殿の並びに末社・印納社があり、その左側に愛宕社(おたぎしゃ)・
稲荷社があります。
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三井神社の前に白玉椿の木が植栽されています。
江戸時代の寛政5年(1753)に光格天皇が参拝された際に奉納されたもので、
雪の白さに匹敵する花を付けることから「擬雪」と名付けられました。
同椿は三井家にも保存されていて、平成27年の第34回式年遷宮で三井社の
修理が行われた際に、枯れ死した先代に代り新たに三井グループによって
奉納されました。
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三井神社の前方に供御所があり、寛永5年(1628)度の式年遷宮で
造り替えられたもので、国の重要文化財に指定されています。
御所内は東、中、西の三間に分かれています。
東の間は、供御所で神饌を調理する所、中の間は贄殿(にえどの)で
魚介鳥類を調理する所、西の間は侍所(さぶらいどころ)で神官などが参集し、
直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などが行われます。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を
神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。
古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると
考えられてきました。
この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義である
ということができます。
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供御所の右方向に神福殿(しんぷくでん)があり、寛永5年(1628)度の
式年遷宮で造り替えられたもので、国の重要文化財に指定されています。
かって、夏・冬の御神福を奉製する御殿であったことが
その名の由来になっています。
近世以降は勅使殿または、着到殿となり、
古来殿内の一室が行幸の際は玉座となりました。
北西にある一室が「開かずの間」として伝えられ、御所が被災の際は
臨時の御座所と定められています。
江戸時代の安政元年(1854)に発生した南海トラフの大地震では
孝明天皇が移ったとの記録が残されています。
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神福殿の左側に媛小松(ひめこまつ)が植栽されています。
寛平元年(889)11月から賀茂祭で東遊(あずまあそび)が奏されたとあり、
その二段目「求め子」で詠われる藤原敏行の歌、
「ちはやぶる 鴨の社の姫小松 よろず世ふとも色はかはらじ」に因むものです。
「媛」の字が使われているのは、祭神の玉依媛命によるものです。
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媛小松の前にも解除所(げじょのところ)があります。
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供御所の後方に出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)があり、
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
出雲井於神社は『日本書紀』に「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)
とある人々が祖神として祀った神社」とされています。
その後、文武4年(700)にほぼ完成した大宝令(たいほうりょう)以降、
山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの
地域が愛宕郡(おたぎぐん)となり、鴨川の東岸が蓼倉郷(たでくらごう)、
西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社
との意味になります。
厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊(ひいらぎ)」となって
願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、
「京の七不思議」に数えられていました。
そのことから柊神社、比良木神社(ひらきじんじゃ)とも呼ばれました。

現在の社殿は、寛永6年(1629)の式年遷宮のときに天正9年(1561)に造営された
賀茂御祖神社(下鴨神社)本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では
最も古い社殿になり、国の重要文化財に指定されています。

境内末社は、北社が岩本社で住吉神が祀られ、南社の橋本社には
玉津島神(たまつしまのかみ)が祀られています。
社殿はともに重要文化財に指定されています。
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馬場を南へ進んだ右側に雑太社(さわたしゃ)がありますが、
「仮殿」になっています。
雑太社は、元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として
祀られていた神社です。
神舘御所は下鴨村の南にあり、賀茂祭の時に内親王が清服に改める所とあります。

その後、応仁・文明の乱で鴨社神舘御所は焼失し、
雑太社は鴨社神宮寺域へ遷されました。
しかし、宝永5年(1708)に鴨社神宮寺も火災を受け、河合神社へと遷されました。
第二十三回・正徳元年(1711)式年遷宮では、神宮寺域内にあった
日吉神社との相殿となり、昭和34年の第三十二回式年遷宮事業により
造替のため昭和20年末に解体され、遷宮事業が遅延のため現在も仮殿のままです。

雑太社の右側に「第一蹴の碑」が建立されています。
明治32年(1899)、日本に伝わったラグビー(蹴球)は、
明治43年(1910)になって、京都に伝わり、糺の森でラグビーの
「第一蹴」が行われたとされています。
この「第一蹴の碑」は、昭和44年(1969)に三校(京都大学の前身)
蹴球部OBによって建立されました。
2019年、日本で開催されるラグビーワールドカップの抽選会が、
2017年5月に京都迎賓館で行われ、日本はプールAと決まりましたが、
その抽選に先立ち、各国の関係者が「第一蹴の碑」と「雑太社」の前に集まって、
蹴鞠の奉納・体験が行われました。

下鴨神社は、特に本宮及び大炊殿周辺の画像が撮れていなかったので、
後日追加したいと思います。

応仁の乱発祥の地とされ、神仏霊場・第100番札所の
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)へ向かいます。
続く

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南口鳥居をくぐった左側に社務所があり、その一角に
「さざれ石」が祀られています。
さざれ石の詳細についてはこちらをご覧ください。
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さざれ石の北側に相生社(あいおいのやしろ)があり、縁結びの神とされている
神皇産霊神(かむむすびのかみ)が祀られています。
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鳥居の右側には夫婦らしき石像が置かれています。
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社殿横には神木の「連理の賢木(れんりのさかき)」と呼ばれる
2本の木が立っています。
下鴨神社・七不思議の一つとされ、2本の木が途中から1本に結ばれています。
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相生社で縁結びの祈願を行うには特別の作法があるようで、
社殿前にその方法が記されています。
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鳥居の正面に高さ13mの楼門があります。
楼門と東西の回廊は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
以前は21年ごとの式年遷宮で造り替えられてきましたが、
寛永の遷宮以降は解体修理を行い、保存されています。
式年遷宮は、平安時代の長元9年(1036)に第1回が行われました。
この頃、京都では天候不順による農作物の不作や鴨川の氾濫、
飢饉や疫病が蔓延し、政情不安に陥っていました。
朝廷が下鴨神社で祈願したところ沈静したことから、
成就した報恩として式年遷宮が行われました。
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西回廊の床張りの一間は「剣の間」と呼ばれ、賀茂祭(葵祭)の時、
勅使がここで剣を解かれます。
葵祭の起源は、欽明天皇28年(567)に天候不順で五穀が実らず、
疫病が流行したのは賀茂大神の祟りとされ、祟りを鎮めるため、
勅命により4月の吉日に祭礼を行ったのが始まりとされています。
馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)を
したところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったという。
弘仁10年(819)には、朝廷の律令制度として、最も重要な
恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になりました。
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楼門をくぐった正面に舞殿(まいどの)があり、江戸時代の
寛永5年(1628)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
葵祭の時、勅使が御祭文(ごさいもん)を奏上され舞曲・
東遊(あずまあそび)が奉納されます。
また、御所が被災したとき、臨時の内待所と定められています。
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舞殿の左方向に橋殿があり、江戸時代の寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
橋殿は御手洗川の上に建立されており、御陰祭では御神宝が奉安される御殿です。
古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、
倭舞(やまとまい)が行われていました。
御戸代会神事は秋の収穫を前に五穀豊穣、天下泰平を祈願した平安時代に
行われていた神事で、現在では名月管弦祭として引き継がれています。
また、正月神事など年中祭事の際に神事芸能が奉納されます。
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橋殿の奥に細殿があり、寛永5年(1628)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
細殿は歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所(あんざいしょ)です。
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細殿の北側には解除所(げじょしょ)があります。
解除所は、天皇の行幸や官祭などの際に解除(祓い)が行われました。
その先に続く御手洗池(みたらしいけ)では、古代から現在に至るまで
5月15日に行われる葵祭にさきがけ、斎王代御禊儀(みそぎのぎ)をはじめ、
年中祭事の樹下神事(じゅげしんじ=御祓)が斎行されます。
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御手洗池の奥に井上社(御手洗社)があり、
瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られています。
瀬織津姫は、水神や祓神であり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされています。
元は唐崎社と呼ばれ、高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座していましたが、
文明の乱により文明2年(1470)に焼失したため、
文明年間(1592~1596)に現在地に再建されました。
井戸の井筒の上に祀られたことから井上社と呼ばれるようになり、
寛永年度(1692)に行われた式年遷宮より官営神社となりました。
土用の丑の日に足つけ神事が行われ、土用になると御手洗池から
清水が湧き出ることで七不思議の一つに数えられています。
池底から自然に湧き上がる水泡をかたどったのがみたらし団子の発祥と伝わります。
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御手洗池から流れ出る御手洗川には「輪橋(そりはし)」が架かり、
橋の手前には鳥居が建立されています。
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舞殿前まで戻り、正面にある中門をくぐると、本殿前の前庭に干支の
守り神を祀った七つの小さな社があります。
いずれも大国主命の別名で、言霊の働きによって呼び名が変わります。
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門の正面に当たる所に向かい合わせの一言社の社殿があり、
左側には顕国玉神(うつしくにたまのかみ)が祀られ、
午年生まれの守護神とされています。
右側には大国魂神(おおくにたまのかみ)が祀られ、
巳・未年生まれの守護神とされています。
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境内の右側に二言社(ふたことしゃ)があり、むかって右側には大国主神が祀られ、子年生まれの守護神とされています。
左側には大物主神が祀られ、丑・亥年生まれの守護神とされています。
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境内の左側に三言社(みことしゃ)があり、向かって右側には
志固男神(しこおのかみ)が祀られ、卯・酉年生まれの守護神とされています。
中央には大己貴神(おおなむちのかみ)が祀られ、
虎・犬年生まれの人の守護神とされています。
左側には八千矛神(やちほこのかみ)が祀られ、
辰・猿年生まれの人の守護神とされています。

本殿は東本殿と西本殿があり、東本殿には玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
西本殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。
玉依姫命は賀茂建角身命の御子神で、鴨川で禊をしていた時、
上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床に置いていました。
丹塗矢は、火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身であり、後に
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと=上賀茂神社の祭神)を出産しました。
下鴨神社が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称されるのは、
上賀茂神社の祖父と母を祀ることによるものです。

西本殿の左側に印璽社(いんじしゃ)があり、霊璽(れいじ)が祀られています。
印璽とは印形のことであり、古くより印は宮廷や社寺において
貴重な秘印として扱われ、それが次第に神格化されていきました。
現在では、契約の神として、大切な契約の時、
物事を成功裏に結び付けたいなどの信仰を集めています。

本殿の左側にある摂社・三井神社へ向かいます。
続く

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晴明神社から堀川通を北上し、今出川通へ右折し、河原町今出川を左折して、
その先を右折して賀茂川に架かる出町橋を渡ります。
高野川に架かる河合橋の手前を北上した所に社標と鳥居が建立されています。
下鴨神社は賀茂川と高野川の中州に位置し、縄文時代の土器や弥生時代の
住居跡が発掘されており、古くから何らかの祭礼が行われていたことが伺えます。
文書が残るものとしては、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)7年(BC91)に
神社の瑞垣の修造の記録があり、それより以前に創建されたと考えられています。
下鴨神社は正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、
山城国一宮で旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、世界遺産「古都京都の文化財」の1つとして登録されています。

鳥居をくぐって直進すると御陰通に突き当たります。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、五月十二日には、御蔭祭(御生神事)が
 高野川の上流、叡山電鉄の八瀬駅付近にある御陰神社で行われます。
社伝では御陰神社のある地に、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)が降臨したとされ、神霊が御陰神社から
下鴨神社へと遷されます。
その祭列が通ることから「御陰通」と名付けられました。
御蔭祭の起源は、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)と伝わります。
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御陰通を左折した先に表参道があり、参道入り口には「世界文化遺産」と
刻まれた石碑が建立されています。
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参道を進み、境内を流れる「瀬見の小川」に架かる「紅葉橋」を渡り、
鳥居をくぐった左側に三井社があります。
三井社は三塚社とも呼ばれ、社殿前に立つ駒札には「古い時代の下鴨神社は、
古代山代国・愛宕(おたぎ)、葛野郷(かずぬごう)を領有していた。
その里には下鴨神社の分霊社が祀られていた。
この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社として祀られていた神社。
摂社・三井神社の「蓼倉里三身社」とは別の社。」と記されています。

鴨社蓼倉郷の現在地を特定するのは困難ですが、下鴨神社の北部に
左京区下鴨蓼倉町、東部、高野川を越えた所に高野蓼倉町の地名が残されています。

祭神は中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
東社に伊賀古夜媛売命(いかこやひめのみこと)、
西社に玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
伊賀古夜媛売命は賀茂建角身命の妻で、玉依媛売命は子ですが、
豊玉姫の妹ではなく、一般に巫女を差す名とされています。
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三井社の横にある手水舎。
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三井社の前に下鴨神社・第一摂社である河合神社の神門があります。
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神門をくぐった正面に拝殿があり、その正面に河合神社があります。
正式には「鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこべそじんじゃ)」といい、創建や変遷の詳細は不明ですが、平安時代の延長5年(927)にまとめられた
延喜式』には鴨川合坐小社宅神社と記されています。
現在の社殿は江戸時代の延宝7年(1679)に行われた式年遷宮の際に造営されました。
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祭神は神武天皇の母である玉依姫命で、美貌の持ち主とされ、
美貌成就を願う「鏡絵馬」が多数奉納されています。
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河合神社の右側には貴布禰神社(きふねじんじゃ)があり、
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
高龗神は伊弉諸尊(いざなぎのみこと)の子で、水を司る神とされています。
応保元年(1161)収録の「神殿屋舎等之事」に、河合神社の
御垣内に祀られていたことが収載されています。
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左側には任部社(とうべのやしろ)「古名 専女社(とうめのやしろ)」があり、
八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
河合神社創祀のときより祀られています。
古名の専女とは、稲女とも書き食物を司る神々が祀られていたことを示しています。
鎌倉時代末期に成立した『百練抄(ひゃくれんしょう』の
安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀され、
この時より祭神が八咫烏命に改められたと思われます。
八咫烏は、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされ、神武東征では神武天皇を大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。
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昭和6年(1931)、八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として
日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神となり、サッカーボールが多数奉納されています。
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境内の左側には六社(むつのやしろ)があり、右側から
諏訪社[祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)]、
衢社(みちしゃ)[祭神:八衢毘古神(はちまたひこのかみ)、
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)]、
稲荷社[祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)]、
竈神(かまどのかみ)[祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)、
奥津比賣神(おくつひめのかみ)]、
印社(いんしゃ)[祭神:霊璽(れいじ)]、
由木社(ゆうきしゃ)[祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)]が祀られています。
建仁元年(1201)の第八回、新年遷宮のために描かれたとみられる
「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々に祀られていましたが、
江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となっていました。
いずれも、衣食住の守護神です。
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境内の右側には鴨長明の方丈が再現されています。
鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある
正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の
次男として誕生しました。
元久元年(1204)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の
職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得ました。
しかし、賀茂御祖神社・禰宜の鴨祐兼(すけかね)が長男の
祐頼(すけより)を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、
神職としての出世の道を閉ざされました。
その後、長明は出家し、東山次いで大原、晩年は京の郊外・日野山
(京都市伏見区日野町)に方丈を結び隠棲し、
建暦2年(1212)に『方丈記』を著しました。
『方丈記』は、長明が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であり、
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、
『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれています。
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河合神社の東の鳥居を出ると、北側へと馬場が伸びています。
毎年、5月3日に行われる流鏑馬神事では、勇壮に馬が駆け抜け、
馬上から的にめがけて矢が放たれます。
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参道へ戻ります。
境内に広がる原生林は糺の森と呼ばれ、ケヤキやエノキなどの落葉樹を中心に、
約40種・4,700本の樹木が生育しています。
下鴨神社の紅葉の見頃は、12月初旬~中旬とやや遅れぎみです。
高い広葉樹が落葉した後に、ようやく樹高が低い楓に日光が当たり、
紅葉が始まります。
かっては「紅葉橋」から糺の森を数筋の細い参道があって、
「烏の縄手」と呼ばれ、下鴨神社の七不思議として伝えられています。
縄手とは「狭い、または細い、長い道」という意味で、
八咫烏は下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされていることから、八咫烏の神様へお参りする長い参道を意味しています。
現在、その参道は姿を消していますが、一部復活されているそうです。
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参道を進んだ中間地点付近にある御神木は、樹皮が剥がれて
白く枯れた幹が見え、つっかえ棒によって支えられています。
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反対側から見ると、青々と葉を茂らせ存在感を見せつけているようです。
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更に参道を北上した右側に平安時代後期の祭祀遺構が復元されています。
ただ河原石が並べられているように見え、
どのような祭祀が行われていたのでしょうか?
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参道を横切る「瀬見の小川」の先に南口鳥居が建立されています。
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鳥居の手前、左側に無料休憩所の「おやすみ処」があります。
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右側に手水舎があります。
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手水鉢には舟形磐座石が使われ、神水を注ぐ樋には糺の森の主と呼ばれていた
樹齢600年のケヤキです。
覆屋は、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)7年(BC91)頃、糺の森神地に
瑞垣の造り替えが行われた記録を基に再現した透塀(すきべい)です。

行きそびれてしまいましたが、手水舎の奥の方に舩島(ふなじま)があります。

鳥居をくぐります。
続く

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大日如来の祠から戻り、東へ曲がった所、本堂の右側に阿弥陀如来露仏があります。
台座の蓮弁の石には、「木食正禅造立」と刻まれています。
この像は、享保5年(1720)に木食正禅上人によって建立されました。
正禅上人は七条大宮で生まれ、8歳の時に父を亡くし、
泉涌寺雲龍院で出家・得度しました。
後に高野山で五穀を断ち木の実を生のままで食べる修行をする木食行を修め、
高野山を降りて加行をし、再び高野山で木食大戒を修めて大阿闍梨となります。
四宗(天台、真言、禅宗、浄土)兼学した上人は、大衆の教化をするには
念仏がふさわしいと考え、京都に戻り七条大宮に庵を設けて、
街を念仏行脚するなど念仏聖の行を実践していきます。
また、日ノ岡峠道の改修や渋谷街道の補修、
井戸を掘るなどの社会事業に取り組みました。

平安時代に乙訓郡大藪村に創建された仁王護国院は、長い間に退廃していました。
享保10年(1725)、正禅上人は仁王護国院を移築・再建し、
安祥院と改め、上人自作の阿弥陀如来像を安置しました。
そして、阿弥陀仏の霊感を受け、洛陽六阿弥陀巡拝を始めました。
定められた功徳日参りを3年3ヶ月怠らずに続ければ、無病息災、家運隆盛、
祈願成就がかなうと教えられ、有縁無縁の精霊の追善回向を行ずれば、
わが身の往生安楽がかなえられると説かれています。
1月15日の初六阿弥陀巡りで、「南無阿弥陀仏」を念ずれば極楽浄土
するといわれています。
真如堂は、1番札所になっています。
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阿弥陀如来露仏の左側にある石仏群
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本堂の右側に縦皮桜が植えられています。
徳川家光の乳母、春日局が父 斉藤利三の菩提を弔うために植えたもので、
他の桜と違い、樹皮が松の皮に似て縦に走ることからその名があります。
春日局が手植えされてから300年以上を経て、直径1mの巨木に
なっていましたが昭和33年(1958)の伊勢湾台風で折れてしまいました。
数年後、折れた幹から芽を吹き、小振りで清楚な花を咲かせるようになりました。

斉藤利三は、明智光秀と縁戚関係があり、筆頭家老として仕えていました。
本能寺の変では首謀者の一人として加わり、中国から引き返してきた
羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するも捕らえられ、
六条河原で斬首されました。
首は光秀とともに本能寺に晒されましたが、親交の深かった絵師の海北友松が、
槍を振って侵入し、利三の首を奪い取り、真如堂に葬りました。
また、海北友松も真如堂に葬られています。
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本堂の裏側へと曲がった所に宝蔵があります。
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宝蔵の左側に萬霊堂があります。
三井家によって建立され、地蔵菩薩を中心に有縁無縁の精霊を祀っています。
真如堂は三井家の菩提寺で、墓所があります。
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萬霊堂から東に進んだ所に、三井二木会物故社員追悼の慰霊塔が建立されています。
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萬霊堂の先に書院への門があります。
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慰霊塔の左側に石薬師堂があります。
平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が見つかり、
桓武天皇はその石に薬師如来を刻むことを命じ、お堂を建立して安置しました。
正親町天皇は当時、寺町今出川にあった真如堂の僧・全海にこの像を祀らせました。
元禄6年(1693)に真如堂は現在地に移転し、
石薬師像は元三大師堂に安置されていました。
大師堂では、護摩が焚かれますので、像はその油煙や煤で、
真っ黒な姿となってしまいました。
現在の建物は、昭和41年(1966)、東山五条の金光院より
寄進・移転されたものです。
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本堂へ戻ります。
本堂の前には菩提樹が植えられています。
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真如堂は、永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、
延暦寺・常行堂の本尊であった阿弥陀如来像を東三條女院の離宮があった
現在の地に移して安置したのが、始まりとされています。
山号を鈴聲山(れいしょうざん)、寺号を真正極楽寺と称する天台宗の寺院です。
長徳元年(992)、一条天皇の勅命により本堂が建立され、勅願寺となりました。
本堂は真如堂と名付けられ、通称となりました。
不断念仏の道場として、念仏行者や庶民、特に女性の篤い信仰を集めました。
しかし、応仁の乱では細川勝元らの東軍の陣地となり、
堂塔は打ち壊しに遭うなど荒廃し、各地を転々としました。
元禄6年(1693)から現在地での再建が開始され、
現在の本堂は享保2年(1717)に上棟されました。
京都市内の天台宗寺院の本堂では最大規模を誇り、
国の重要文化財に指定されています。

本尊は、慈覚大師作の阿弥陀如来立像で、国の重要文化財に指定されていますが、
秘仏とされ11月15日のみ開帳されます。
慈覚大師が30歳の時、延暦寺の如法堂で毎夜、根元が光っている霊木を見つけ、
二つに割った一方で阿弥陀如来坐像を彫り、
その後、日吉大社念仏堂の本尊とされました。
片方はそのままにしていました。
慈覚大師は遣唐使となり、五台山で文殊菩薩から引声阿弥陀経を授かりました。
帰路、船上で引声念仏の一節が思い出せないでいると、虚空より小身の
阿弥陀如来が現れ、その一節を授けました。
大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、残しておいた霊木で
阿弥陀如来を彫り、その胎内にこの3cmほど如来を納めました。
仕上げに掛かっていると、夢の中で阿弥陀如来が「比叡山から京都へ下りて、
女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたい」とお告げになりました。
大師は、「お告げに従います」と答えたので、如来がうなづかれたことから、
「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。
お告げに従い、女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂(真正極楽寺)に
安置され、多くの女性たちの出産の苦しみを救われました。
時代が流れ、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀如来立像は大蓮寺へと渡りました。

その後、阿弥陀如来立像は真如堂へ戻されましたが、大蓮寺にはその分身と
される如来像が本尊として安置されています。
本堂内正面の宮殿は、徳川五代将軍・綱吉と桂昌院から寄進されました。
宮殿内には、本尊の阿弥陀如来立像、千手観音増、
不動明王坐像が安置されています。
千手観音像は伝教大師大師作と伝わり、不動明王坐像は安倍晴明の念持仏でした。

真正極楽寺は、神仏霊場巡拝の道・第111番、洛陽六阿弥陀巡拝・第一番、
京の通称寺霊場・第二十二番、新長谷寺は洛陽三十三観音霊場・第五番、
鎌倉地蔵は洛陽四十八願所地蔵巡り・第二十三番の札所となり、
いずれの宝印も本堂で授けられます。
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本堂で500円を納め、涅槃の庭と隋縁の庭を拝観します。
涅槃の庭は、昭和63年(1988)に曽根三郎氏によって作庭されました。
左側(北側)を頭にしたお釈迦様が入滅され、右脇を下にして横たわり、
その回りを弟子や生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が
石によって表現されています。
東山連峰を借景とし、特に大文字山には、大の字の中心に人が立っているのが
見えるほど近くみえます。
生垣が二段になっているのは、作庭された当時は低く、それから借景の
邪魔となる建築物を隠すために、背後に高い生垣が作られ、
大文字山が半分隠されてしまいました。
右手前のやや白っぽい岩は、母であるマーヤーを象徴しています。
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隋縁の庭は平成22年(2010)に重森千春氏によって作庭されました。
背後のにある仏殿の蟇股(かえるまた)に付けられた四つ目の家紋に因んで
デザインされました。
「隋縁」とは「隋縁真如」の略で、「真理が縁に従って様々な相を生じること」、
つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せる」
という仏教の言葉です。
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室内の撮影は禁止されていますが、M.ジャクソンはこの掛け軸の図から
スリラーのポーズを考えたのではないかと思いましたが、
M.ジャクソンがこの図を見たかは不明です。
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本堂を出て、書院の玄関に廻りました。
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書院の玄関前から少し西に進んだ所に本坊があります。
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本坊の左側に真如山荘があります。
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真如山荘の左側、北参道を横切った所に元三(がんざん)大師堂があります。
元三大師の詳細については、こちらをご覧ください。
堂内には、元三大師の画像を本尊とし、地蔵菩薩と不動明王像が安置されています。
画像の裏書きは、永正7年(1510)2月3日のもので、この像が大師の自筆に
よるものであること、実乗院門跡伝来のものであって、永正4年の争乱の時、
兵卒によって奪われたのを買い戻し補修をしたということが記されています。

大師堂前の石灯籠は、琵琶湖疏水の工事の総責任者である田邉朔郎氏
感謝の意を込めて、地元北白川の人たちが贈ったものです。
疎水の開通により、干ばつの悩みから解消されたとして、白川石で造られた
石灯籠を田邉氏の邸宅用に寄贈を申し出ましたが、固辞されたため、
田邉氏の邸宅に近い真如堂に奉納されました。
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元三大師堂の左側に新薬師寺があり、本尊の十一面観音立像は総持寺
本尊と同じ香木で彫られたと伝わります。
当時、藤原山蔭は、家領であった左京区吉田の地に春日神社の四祭神を勧請し、
山蔭一門の氏神として吉田神社を創建しました。
吉田神社の北に当たる左京区田中の地に新薬師寺を建立し、
この像を安置しました。
吉田神社は、東三條女院が一条天皇の外祖母となるに至って藤原氏全体の社となり、東三條女院によって田中の地にあった新薬師寺を、
吉田神社の境内に再建されたと考えられています。
明治の神仏分離令により新薬師寺は、現在地に移されました。
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新薬師寺の左側に千体地蔵堂があります。
安永9年(1780)に建立されたもので、堂内には本尊の彩色された地蔵菩薩の
背面に高さ10cmほどの同じく彩色された小身の地蔵千体が安置されています。

吉田神社へ向かう予定でしたが、雷が鳴り出しましたので帰宅します。
結局、雨は降らなかったのですが、連日のように雷注意報が発令され、
しかも平年以上の暑い日が続く今年の京都の夏です。

次回、西国三十三観音霊場・第二十七番札所の書写山・圓教寺を巡ります。

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金戒光明寺の北門を出たすぐ先に真如堂があるのですが、バイクで移動
しているため、金戒光明寺を周り込むように真如堂の駐車場まで来ました。
駐車場から一旦外に出て、向かいの山手の方へ進んだ右側に陽成天皇の
神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)があります。
陽成天皇は、生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)11月に
9歳で父・清和天皇から譲位されました。
母方の伯父・藤原基経が摂政に就きましたが、確執があり、また宮中で
殺人事件が発生したことから、基経に迫られ、元慶8年(884)2月4日、
17歳で退位しました。
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陵の先に宗忠神社の鳥居が見えますが、雷注意報が発令されていますので、
真如堂へ戻り先を急ぎたいと思います。
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参道に入り、総門の手前左側に法伝寺があり、
荼枳尼天(だきにてん)が祀られています。
お寺というより神社のように見えます。
順徳天皇が、縣井(あがたい)の中から現れた黄金の如意輪観音を
祀るために一条東洞院に法伝寺を建立しました。
その後。現在地に移転しました。
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参道へ戻ります。
総門は江戸時代の(1695)に建立され、赤く塗られていることから
「赤門」とも呼ばれています。
総門には敷居が無く、総門をくぐった所に駐車場があります。
真如堂が位置する所は、神代の時代に八百万の神が神楽を舞った聖地で
あったことから神楽岡と呼ばれています。
総門に敷居が無いのは、神楽岡の神々が毎夜の参詣につまずかないように
配慮されているためと伝わります。
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総門を入って右側に三重塔が目に入ります。
三重塔は法華塔とも呼ばれ、高さ30mあり、
江戸時代の(1817)に再建されました。
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三重塔の右側に地蔵堂があり、殺生石(せっしょうせき)で刻まれた
鎌倉地蔵が祀られています。
今から1300年前の中国に、白面金毛九尾(金色の毛に覆われ九の尾を持つ)
狐がいて、美女に変身して皇帝を虜にし、国を傾かせました。
やがて、正体を見破られ、逃れて日本へと渡ってきました。
狐は、日本でも「玉藻前(たまものまえ)」という美女に変身して
鳥羽上皇の寵愛を得ましたが、陰陽師・安倍泰親(晴明の子孫)に見破られ、
下野国(しもつけのくに=現在の栃木県)那須野原に逃れました。
その後、狐の仕業と思われる出来事を幾度も耳にした上皇は、
上総介(かずさのすけ)と三浦介に妖狐の退治を命じました。
二人は神前で百日の行を行うと、狐退治のお告げを受け、上総介の弓から
放たれた矢は見事に狐を射ぬき、三浦介がとどめを刺しました。
この妖狐の魂は石と化しましたが、尚も悪霊となり近寄る生き物を
殺してしまうので、「殺生石」と呼ばれ恐れられていました。
これを知った室町時代の僧・玄翁禅師は杖で殺生石を叩き割り、
悪霊を成仏させました。
禅師は三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を刻み、
鎌倉に小さなお堂を建てて祀りました。
江戸時代の初期、日光東照宮などを造営した甲良豊後守は、この像を篤く
信仰していましたが、ある夜、夢中にこの地蔵尊が現れて
「自分を衆生済度の霊場である真如堂に移しなさい」と告げました。
豊後守はそれに従い、地蔵尊を真如堂に遷座し、以前鎌倉に安置されていた
ことから、鎌倉地蔵と呼ばれるようになりました。
また、伝承によれば、玄翁が殺生石を退治したのは至徳2年(1385)8月のこと
であり、大きな金槌の玄能・玄翁(げんのう)の由来となりました。
この功績により翌年、後小松天皇より法王能昭禅師の号を賜りました。
甲良豊後守の墓は真如堂にあります。
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三重塔の向かいには茶所があり、紅葉シーズンなどには床机が並び、
抹茶や甘酒の接待が行われます。
茶所内には善光寺如来の御分身が祀られています。
現在、善光寺では7年に1度、御前立本尊の御開帳が行われますが、
江戸時代は建物の維持修繕や再建のための資金を確保するため、江戸、京都、
大阪はもとより、全国で出開帳を行ってたようです。
善光寺如来像は、鎌倉時代から室町時代初期にかけて模鋳像がたくさん造られ、
出開帳のための「善光寺如来」も何体かあったそうですから、
その一体がそのまま真如堂に奉安されたのか、あるいは新たな
模鋳像が作られて安置されたものと考えられています。
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三重塔の左側に手水舎があります。
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手水舎の奥に「谷口 藹山(たにぐち あいざん)自叙碑」があります。
幕末から明治期の山水画、花鳥画を得意とした文人画家で、
文化13年(1816)に越中国新川郡鉾ノ木村(現在の富山県立山町)で生まれました。
幼少より絵を好み、郷里の文人画家から画を学び、18歳で江戸に出て
谷文晁に就いた後、天保8年(1837)に高久靄厓(たかく あいがい)の門下に
なって藹山と号しました。
天保12年(1841)、京都の貫名菘翁(ぬきな すうおう)を訪ね、
文人画を志すなら詩・書・画を学び、経学を中心に漢学を修めなければ
ならないことを知りました。
浪華の篠崎小竹(しのざき しょうちく)から儒学を学んだ後、九州を遊学し
弘化2年(1844)に京都に戻り貫名菘翁に入門し、京都に留まりました。
明治2年(1869)には西園寺公望(きんもち)が開校した私塾立命館に
富岡鉄斎らとともに講師として招かれ、明治13年(1880)64歳の時、
京都府画学校(後の京都市立芸術大学)の南画担当教授となりました。
この碑は、明治33年(1900)に門弟たちにより、
藹山がよく散策した縁で真如堂に建立されました。
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三重塔の裏側辺りに縣井(あがたい)観音堂がありますが、
近接しての画像を撮り忘れました。
「縣井」とは井戸の名前で、今も京都御苑の宮内庁京都事務所の西側にあり、
染井、祐井と共に、御所三名水の一つに数えられています。
昔、この井戸のそばには「縣宮」という社があって、地方官吏に任命されたい
と願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、
宮中に参内したといわれています。
順徳天皇の御代、承久年中(1219~1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、
この病にかかった橘公平が「縣井」の水を飲んで観音さまを念じたところ、
10日程して疫病が治ったといいます。
10日目の夜、井戸の水を汲みに行くと、井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、
「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになりました。
この話を聞いた天皇はこの像を宮中に祀られましたが、
一条東洞院にお堂を建て、「法伝寺」と名付けられました。
お堂はその後度々兵火に罹って灰燼と帰してしまいましたが、
元禄6年(1693)に当時、寺町今出川下るにあった真如堂の境内に移されました。
堂内には県井観音(如意輪観音)が祀られ、法伝寺は最初三重塔近くに
ありましたが、現在は総門前に移転しています。
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参道の正面に本堂が見えますが、手前を右側に入ると享保13年(1728)に
建立された宝篋印塔があります。
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宝篋印塔の先に鐘楼があり、その石段には堀川に架橋されていた
三哲橋の遺構が使われています。
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鐘楼は、元禄年間(1688~1704)に建立され、その当時は極彩色だったそうです。
梵鐘は宝暦9年(1759)に鋳造された物で、直径約171cm、高さ約285cm、
重さ約3.1tあり、一旦は戦時供出されました。
しかし、錫の含有率が少ない鐘は割りにくく、後回しにされたため、
潰されずに戻ってきました。
画像は失敗し掲載できませんが、材質を調べるため開けられた
直径約15.6mmの穴が4箇所残されています。
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鐘楼の東側に三千仏堂があります。
過去、現在、未来の三千仏を礼拝し、懺悔するお堂と説明されています。
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三千仏堂の右側に大日如来を祀る祠があります。
本堂の右側へと進みます。
続く

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